WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『マリッジ・ストーリー』-L.A. vs N.Y. /妻 vs 夫

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2019年制作/136分/G/アメリ

原題:Marriage Story

配給:Netflix

監督:ノア・バームバック

制作:デビッド・ハイマン、ノア・バームバック

出演者:スカーレット・ヨハンソンアダム・ドライバーローラ・ダーンアラン・アルダ

 

メリル・ストリープ演じるジョアンナとダスティン・ホフマン演じるテッドの離婚を描いた『クレイマー、クレイマー』は、何と40年以上も前の1979年制作の作品だが、本作『マリッジ・ストーリー』とほぼ同じ題材を扱っている。40年経って、アメリカにおける離婚/結婚をめぐる状況はどのように、あるいはどの程度変わったのだろうか。

 

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クレイマー、クレイマー』では、夫テッドは仕事人間のサラリーマンで、家庭に打ち捨てられた妻ジョアンナは、自分自身として生きるために、着の身着のまま、幼い息子を置いてまで家を出る。家庭のことはジョアンナに任せきりだったテッドは、当初は何もできないが、次第に息子と二人の生活に慣れていく。やがてジョアンナが息子の親権をとるためにテッドに連絡をしてくるが、話し合いは物別れとなり、裁判となる。

出て行ったジョアンナがどうしていたか、まったくと言っていいほど描かれないが、L.A.で職を得て自信を取り戻し、N.Y.に戻って親権を主張する気になったことがジョアンナの口から語られる。

 

アダム・ドライバー演じる本作の夫チャーリーは、N.Y.の前衛劇団を率いて仕事に打ち込んではいるが、料理など家庭のことは一通りできるし(しかも上手い)、息子の相手も教育もする。スカーレット・ヨハンソン演じる妻ニコールは、L.A.のテレビドラマからN.Y.の前衛劇団へと舞台を変えてはいるが仕事を続けている。

一見、ニコールの生活は、ジョアンナよりも条件がいいようにも見える。家事育児は夫と分担できるし、好きな仕事もしているのだから。

しかしL.A.で女優として人気を博したとしてもそれはテレビドラマで、しかもすでに忘れられた過去のことであり、N.Y.の前衛劇団では、自分のアイディアを夫は取り上げてくれない。舞台作品への賞賛は、ほぼ夫への賞賛だ。L.A.のように広くない家の中は几帳面な夫の好みになっている。現在の状況を直視するならば“自分自身を生きている”とはいいがたい。いかに先進的にみえる夫婦であっても、男女の力関係は40年前とほとんど変わらないのだ(これは全く驚くべきことであることを強調したい)。それでもまあ、片目をつぶって夫婦関係を維持してきた… 夫の不貞を知るまでは。

 

ニコールが離婚を決意する直接の原因となったのは、チャーリーと劇団員との不貞である。『冬時間のパリ』の記事にも書いたが、パートナーの不貞行為を許せるか否かにはいろいろな条件が絡んでくる。なかでも大きいのは、それまでの生活の中で自分が相手との関係においてなにがしかの犠牲を払ってきたと思うかどうかではないだろうか。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

犠牲だけでは関係はまだどうなるかわからない。不貞だけでもまだわからない。しかし犠牲と不貞のワンセットは、確実に離別へのスイッチを押す。そしてそのスイッチは、押したが最後もとには戻らない。ニコールのスイッチは入ってしまったのだ。

妻の日々の小さな自己犠牲に気づかぬ夫は、ある日突然、妻から離婚を言い渡されて狼狽する。本作のチャーリーも、クライマックスの激しい口論に至るまで、妻側の弁護士の言い分を妻の本心とは思えないでいる。それほど二人は“同じ結婚生活”を生きていないのだ。

 

クレイマー、クレイマー』ではひっそりと触れられていたL.A.は、本作では大きく主張する。ジョアンナが自信を取り戻した地は、ニコールのホームグラウンドかつ自分が主体的にできる仕事の場所であり、夫婦の最後の共同作業である離婚の戦いの場だ。

狭く、小さな家族、よく言えば文化的な悪く言えばインテリくさいN.Y.と、広々として多くの親戚に囲まれ、明るくおおらかなL.A.との対比を見ると、もはや国際結婚に近いカルチャーギャップがある。このギャップも、関係がうまくいっている時にはさほど問題にならないが、そうでなくなったときにはかなり大きな問題となる。身体は一つしかないから、一度に二か所で暮らすことはできない。ところがチャーリーは親権を得るためにこのジレンマに挑戦しなければならなくなる…

 

互いに弁護士を入れた離婚解決の方法は、『クレイマー、クレイマー』の頃にはどうだったのか、あまり描かれていないので調べないとわからないが、現在のアメリカにおいては理不尽で不毛な戦いであり、結局のところ得をするのは弁護士だけのように見える。ローラ・ダーンは、その“いかにも”な離婚専門の弁護士を“いかにも”に演じていて出色だ。

 

泥試合の様相を呈してきた二人の戦いの(そして映画の)クライマックスともいえる口論の場面は、長めのワンカットだったかと思うが、リアルというよりかなり演劇的な印象を受けた。だから嘘っぽいという意味ではない。夫婦の口論というものを考え抜き、言葉遣いや動きを計算しつくした場面であって、なんというか、ミュージカルを観ているような感覚になった。一度も言いよどまない、言い間違えない、二人の演技のその完璧さが、書かれた音楽を歌い奏でているかのようなのだ。

 

冒頭と終盤のシーンにおいて読み上げられるニコールの、チャーリーの良いところを書いたメモの中の言葉の中に、「出逢った瞬間、2秒で恋をした」というのがある。ここでチャーリーと、おそらくは観客もぐっとくる。チャーリーはその頃のことを思い出し、観客はそれを想像して。この設定はこの二人の始まりにこれ以上ないほどふさわしい。

興醒めするようなことをいうのは恐縮だが、一目惚れとは、現時点で自分に無いものを相手に見いだし、それを手に入れたいと思う心の状態だ。相手自身を見ているのではないし、結局その手に入れたいものは自分のものとはならないから、その後の展開によっては、離別は避けられない。それでもその一瞬のときめきが、永遠とは言えないまでも長く続くと思ってしまうのが良くも悪くも人間らしいところなのだろう。その意味において、本作は夫婦の愛情についてではなく、人間の愛すべき愚かさを描いた作品でもあるのだろうと思う。

 

全編を通して、二人の性格および行動の違いの対比や、夫婦の機微、あるいは一度は夫婦だった者同士の間に生まれる心境や心情などを表す細かな演出が施されており、全体として精巧な作品という印象を受けた。ことにラストシーンは観客の心に余韻を残して忘れがたい。

『冬時間のパリ』ー 二重生活・パリヴァージョン

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2018年製作/107分/G/フランス

原題:Doubles Vies

配給:トランスフォーマ

監督:オリヴィエ・アサイヤス

製作:シャルル・ジリベール

脚本:オリヴィエ・アサイヤス

出演:ギヨーム・カネ、ジュリエット・ビノシュ、ヴァンサン・マケーニュ、ノラ・ハムザウィ、クリスタ・テレ

 

 

まず、邦題の『冬時間のパリ』というのがよくわからない。映画の内容は、ことさらに冬を強調してもいなければ、パリであることもほぼ関係ない。“冬時間”は、同じアサイヤス監督の『夏時間の庭』からのアナロジーなのかもしれないし、確かに冬のパリが舞台でもある。外国映画の邦題ではよくあることだが、それにしても、とは思う。(ちなみに英語のタイトルはNon-Fictionだそうで、こちらはなんとなく意味ありげだ)

原題は『Doubles Vies』。二重生活、でいいだろうか。しかも複数だ。誰もが(かどうかはわからないけれども)持っている生活の二面性であったり、配偶者や決まった恋人がいながら、それ以外の人とも関係を持つ生活を示す(スパイなどの特殊な人を除けば)。

『二重生活』というと日本でも確か小説が原作の映画があったようだが、私は観ていない。まず思い浮かぶのはロウ・イエ監督の作品(2012年制作)、ニンフォマニアックな男を主人公とした、ひりひりするようなサスペンスメロドラマだ。

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https://www.uplink.co.jp/nijyuu/

 

翻って本作はというと、それとはまったく違ったタッチの軽やかなコメディである。オフィシャルサイトによれば「パリの出版業界を舞台に<本、人生、愛>をテーマに描く、迷える大人たちのラブストーリー」だそうだ。私の感想としては、別にパリの出版業界は舞台になっていないし、<本、人生、愛>も直接的なテーマになってはおらず、大人たちは別に迷っていないが、大きな意味ではラブストーリーではあるかもしれない、といったところだ。

ストーリーをざっくり言えば、パリで暮らす二組の夫婦(女優のセレナと編集者のアラン、政治家秘書のヴァレリー私小説家のレオナール)の日常を描いた作品で、タイトルの複数形が示すように、浮気や不倫をしているのはその中の一人ならず三人である。そのほかにも、老舗出版社のかなり年配のオーナーに若い恋人がいたり、政治家が別の顔を持っていることがわかったりもする。主な登場人物で、秘密がないのは政治家秘書のヴァレリーだけ… と思いきや、最後に秘密(といってもちょっと種類の違う)を明かす。やはり、どこから見てもシンプルな生活を送っているような人は、そうはいないのだ。

飽き飽きしながらもTVシリーズに出演し続けるセレナ、インターネットコンテンツに押されて伸び悩む出版社を電子書籍やオーディオブックなどで盛り返せるか模索中に失業の危機にさらされるアラン、同工異曲の私小説の出版を断られるレオナール、信じていた政治家に思わぬ形で裏切られるヴァレリー……いろいろあるけれども、彼らの誰も深刻な表情を見せない。このあたりはフランス人の実像にかなり近いように思える。私的な意見で恐縮だが、彼らの多くは“弱みを見せたら負け”という風に、よほどのことでなければ何事も無いように振舞う(一種の courtoisieなのだろうと思う)。いずれにしても本作の登場人物たちは、別にセレブではないが明日食うものに困るわけではない、そういう社会層の人々だ。

彼らの会話には政治や現代における表現についての議論が混ぜ込まれてはいるものの、特に高尚さや洒脱さはない。現代の先進国の各地でされているであろう、あくまでも普通の人たちの普通の会話だ。裏返しに言えば、世界の各地で同じような社会問題を抱えているということで、それこそが現代特有の問題なのではないだろうか。

 

(以下、若干内容に触れています)

 

 

最後に二組の夫婦が別れないのは、別に浮気や不倫が「文化である」からではない。

セレナとアランの間では結局不倫はあからさまになってはいないが、お互いに気づいてはいる。そもそも二人にとって不倫は遊びであり結婚生活を揺がすほどのものではないから、外での関係を清算すれば、知らんふりしてこれまで通り夫婦を続けていけばいい。愛し合っているかどうかはこの際問題ではない。

ヴァレリーがレオナールと別れないのは、最後に明かす秘密が原因と考えることもできるが、そうではないだろう。ヴァレリーはレオナールのために何も我慢してこなかった。あまり売れていない小説家を支えるために、好きでもない仕事を頑張ってしてきたのではなく、情熱を持って自分の好きな仕事をやってきたのだ。パートナーに裏切られて、それを許すか許さないかの基準はもちろん人それぞれだが、裏切りを知るまでの生活の中で、相手に対して我慢や献身をしてきたか否かという観点はかなり重要ではないだろうか。自分自身に嘘偽りなく生きているヴァレリーはレオナールに献身も依存もしていない。ただ愛している(本作で「愛している」という台詞はレオナールをまっすぐ見つめるヴァレリーからだけ発せられた)。だから別れないのだ。(出版を断られたレオナールに「慰めて欲しいの?」と問いかけ、「うん」と答えた彼に「いや」とすげなく言うヴァレリーにとって”愛”とは何を指すのだろうかというのはまた別の問題である)

それぞれの人生(vie)がかかっていないかのように見える二組の夫婦の生活(vie)を観て、どういう感想を持てばいいのかよくわからないが、軽やかな諷刺コメディーであることは間違いなく、ところどころ笑わせてもらった。(もちろん、同じ内容をシリアスに描くことだってできるのだし、そのほうが簡単かもしれないのである)

『アイリッシュマン 』ー 時がたつのはあっという間

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2019年製作/209分/PG12/アメリ

原題:The Irishman

配給:Netflix

監督:マーティン・スコセッシ

製作:マーティン・スコセッシロバート・デ・ニーロほか

出演:ロバート・デ・ニーロアル・パチーノジョー・ペシ、レイ・ロマノほか



冒頭、カメラが私たちを連れて行くのはマフィアのたまり場ではなく、死体の転がる現場でもない。病院か老人ホームのような施設の廊下をゆっくりと進み、行き着いた先の部屋で車いすに座っているのが、語り手の、ロバート・デ・ニーロ扮するフランク・シーランだ。

 

この冒頭シーンが示すように、マフィア物にしては出入りの少ない静かな作品だが、複雑な構造を持っているため、ぼーっとしてはいられない。3時間半という長さを感じさせない作品だった。

 

いや、この作品を簡単に「マフィア物」などと言ってはいけないのかもしれない。

 

この作品について、作品そのものを味わうことは思いのほか難しい。スコセッシでマフィアだし、デ・ニーロにジョー・ペシ、そしてアル・パチーノなのだ。

登場人物たちは実在した人々であり、原作はフランク・シーランの告白に基づくノンフィクションで、今も謎とされている全米運輸業者組合の当時の委員長ジミー・ホッファの失踪や、ケネディ大統領暗殺などについて描いていて、話自体も興味深い。

 

しかし、本作を観ながらつい、ロバート・デ・ニーロロバート・デ・ニーロとして観てしまい、作品そのものからは離れた別の感慨にも浸ってしまったのは私だけだろうか。

デ・ニーロはもう若き日のドン・コルレオーネではないし、ヌードルスでもトラヴィスでもエースでもない。それは単に見た目だけの問題ではない。

 

本作では、回想シーンにおけるデ・ニーロ、ジョー・ペシ、パチーノの映像にVFXでディエイジングを施しているそうだ。それについては特に違和感もなく、確かに若返って見えるが、若さとはシワのない皮膚だけを意味するものではない。体型、ことに姿勢・骨格や、ちょっとした動きの端々にそれは現れる。例えば、銃を構えた、その体の形に。殴り倒した男の手を踏みつぶす、その動きに。

 

あと10年早く撮っていればかなり印象が違う作品になっていただろうと思う。

しかし、と、しかしを重ねてしまうが、今撮られたからこそ、別の、メタな視点からも観ることができる作品になっている気もする。たとえデ・ニーロがフランク・シーランではなくデ・ニーロに見えてしまっても、それはそれでいい、というような。むしろそれによって、作品が別の意味を帯び、深みを増すかのような。

 

作中で「時が経つのはあっという間だ」と、誰かが言っていた。ジョー・ペシ演じるラッセル・バッファリーノの言葉だっただろうか。これほど陳腐で、なおかつ真実である言葉はないように思うのは、私自身、だいぶ年を重ねてきたせいかもしれない。

時が経つのはあっという間、人のする事は全て虚しい。そしてその虚しさの積み重ねが人間を形作り、世界を作っているのだろう。

 

誰かの思惑で人の命が簡単に奪われる裏社会の虚しさは、終盤発せられるラッセル・バッファリーノの一言「やりすぎたかもしれん」で極まる。この言葉を聞いた時の、デ・ニーロ演じるフランク・シーランの表情の複雑さはさすがだ。今更やりすぎたと言われても失われた命はとり戻せない。

 

本作は、前述の謎に一つの答えを出しているが、それが真実か否かはわからない。それを明らかにすることは本作の意図するところではないだろう。いずれにせよ、最後に行き当たるのは虚しさだ。

何があったにせよ、どんなふうに生きたにせよ、もはや誰もこの世にはいない。同様に、私たちもいずれはこの世から消えていくのである。

 

2020年、年明けのご挨拶

2019年7月以来、ずっと更新していませんでしたが、ついに2020年を迎えてしまいました。

あけましておめでとうございます。

 

今年はもっとこまめに更新したいです。

あまり書けなくても、映画を観たらとりあえず一行でもアップするくらいの感じで行こうと思います。

 

そんな風にしつつ、ちょっと深めの記事も書いて行けたらいいなと思います。

 

今年もよろしくお付き合いくださいませ。



『新聞記者』ー 最初にノーと言えなければ

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製作年:2019年

製作国:日本

監督:藤井道人

出演:シム・ウンギョン、松坂桃李

上映時間:113分

 

本作で扱われているテーマは、昔から、例えば松本清張のような“社会派”と言われる作家たちに取り上げられ、あるいは小説に、あるいは映画やテレビドラマなどになってきている(即座に作品名をあげることができないが)。

この作品がそれらと異なるところは、今現在日本で起こっていること(と同様のこと)をほぼリアルタイムで取り上げていることではないだろうか。観客がそこにみるのは現在の日本のリアルな姿のひとつである。そこでは未解決の個別のケースを通して、それらを培う腐敗した土壌という、階層の異なる問題が露わになる。

国家という抽象的な概念が、“上司”という駒を使い、一人の人間という具体的な存在を(その家族を人質として)絡めとり追い込んでいく。最初にノーと言えなければ、イエスと言い続けるしかなくなるのだ。

内閣情報調査室の官僚である杉原(外交官であり多くのユダヤ人を救った杉原千畝と同じ姓であるのは偶然だろうか)を演じる松坂桃李は、二重の意味で言葉にできない複雑な感情を、表情によって巧みに表現している。“二重の意味で”とは、まず苦悩があまりに激烈で“言葉にしたくてもできない”という意味であり、さらに仮にそれができても“言葉にするのは危険である”という意味である。

少ない登場人物、少ない場所での物語展開は、この作品が短い撮影期間で撮られたことを想像させる。それはおそらく製作者にとって“今”この作品を世に送り出すことが重要だったからだろう。そして、その物理的な制限が閉塞感を生み、この作品の息苦しい世界観を作り出すのに一役買っている。また、動的な新聞社内と静的な内閣情報調査室内を、カメラワークと色使いで対比的に描くことによって、物理的な動きの少なさを補完している。

本作はサスペンス映画のようでいて、実は観客にもあらかじめ結末まで見えてしまっているような映画である。それでもあえて映画館へ観に行くのは、なにかの答え合わせをしに行くような気持ちなのかもしれない。


#新聞記者 #松坂桃李

 




 

『希望の灯り』ー 通路にて

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原題:In den Gangen
製作年:2018年
製作国:ドイツ
監督・脚本:トーマス・ステューバ
原作・脚本・出演:クレメンス・マイヤー
プロデューサー:ヨッヘン・ラウペ
出演:フランツ・ロゴフスキ、ザンドラ・ヒュラー、ペーター・クルト
ヨーロピアンビスタ 125分

 

東西統一後の、旧東ドイツライプツィヒの巨大スーパーマーケットで働く人々の日常が紡ぐ物語。原題の日本語訳は『通路にて』で、同名の短編小説から本作が作られた。(個人的には『通路にて』の方が好きだ。なぜなら“通路”が好きだから)

所収の短編集「夜と灯りと」は現在品切れ中だそうで、某通販サイトでは中古で15,000円以上の値がついている。邦題の『希望の灯り』は、この短編集のタイトルと絡めているのかもしれないが、アキ・カウリスマキ監督作品『街のあかり』を意識してつけられたようにも思う。どちらの主人公も無口で孤独な男であり、近づいてきた女に恋をする。

 

(以下、内容に触れています)

 

原作のタイトルにもある通り、本作はスーパーマーケットの通路(売り場)を主な舞台としている。無口な青年クリスティアンが在庫管理係として採用され、無骨だが面倒見の良い中年の飲料係ブルーノの働く“通路”へやってくるところから話は始まる。

「袖は下ろしておいた方がいい。気にする客もいるからな」と言われるクリスティアンの首から背中、手首までの腕にはタトゥーが施されている。一見朴訥に見える青年にはそれなりの過去があるのだろう。あてがわれたブルーの上っ張りを羽織る背中からのショット、続いて両袖を引っ張る肘から下のショットは、本作の中で繰り返され、スーパーの仕事のルーチン的な側面を強調するとともに、クリスティアンの素直さや生真面目さを表現している。

男性の上っ張りだけでなく、女性のユニフォーム(ベストとスカート)もブルーであるが、この“ブルー”は本作において象徴的な意味を持つことがやがてわかってくる。

通路の商品棚を挟んだ向こう側にお菓子担当のマリオンを発見したクリスティアンは恋に落ちる。マリオンもまんざらではない様子だが、彼女は既婚者だと同僚から知らされる。通路にマリオンが登場する時、あたりには波の音がする。休憩室の壁にはどこかのビーチの絵が描かれている。クリスティアンが、しばらく仕事を休んでいるマリオンを見舞うために訪れ、結局は忍び込んでしまったマリオンの家の机の上には、やりかけの海の絵のジグソーパズルがある。スーパーには鮮魚のストックがあり、水槽で魚が跳ねている…

青はつまり海だ。では海は? 近くに海のないライプツィヒの人々にとって、というか、ライプツィヒの、元は長距離トラックの配送公社だった現スーパーマーケットで働く人々にとって、海とはどういう意味を持つのだろうか。

“通路”で働く日々を繰り返す自分を、水槽にいれられた魚のようだと思うなら、海とはここを出た先にある自分の帰る/帰りたい場所である。トラックの運転手として街から街へと泳ぎ回っていた日々から、ある日突然、スーパーマーケットという水槽の中に入れられたブルーノは、楽しかった過去を思いフォークリフトに波の音を聞く。青はもしかしたら魚なのかもしれない。そしておそらくブルーノは、魚でいることに耐えられなくなってしまったのだろう。もう水槽へは戻らないと決めたのだ。

マリオンは「ブルーノから教わったの」と、フォークリフトから波の音がすることをクリスティアンに教える。二人がいる通路の先には海が見える。この挿話は詩的で美しく、見る者にじんわりと余韻を残す。

鑑賞後もやはり私は『通路にて』というタイトルに惹かれる。それぞれが様々な事情を背負い、思いを心に秘めつつやってくる場所。毎夜そこにともる灯りは希望なのか否か。その判断をあらかじめ決められたくない、と思う。たとえそれが間違いなく希望であるとしても。

登場人物にはみな、実在するとしか思えないようなリアリティがある。フランツ・ロゴフスキは、無口で静かだが何をするかわからないようなクリスティアンの複雑な人間性を、ほとんどせりふがない中で表現することに成功している。ワルツやブルース、波の音などの音響も効果的で、少しくすんだような色使いが、見も知らぬ旧東ドイツにノスタルジーを感じさせる作品である

『セメントの記憶』ー セメントの味、建設と破壊

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監督・脚本:ジアード・クルスーム
撮影監督:タラール・クーリ
音楽:アンツガー・フレーリッヒ
製作年:2018年
製作国:ドイツ、レバノン、シリア、アラブ首長国連邦カタール
原題:TASTE OF CEMENT
DCP 88分



1975年から1990年にわたり内戦を経験したベイルートの、地中海を臨む高層建築の建設現場で働くシリア人の姿を追ったドキュメンタリー作品。

 

(以下、内容に触れています)

 

カメラは、(おそらくセメントの原料の産地である、山肌も露わな)山間部から市街地までの道のりを空から写し出しながら、舞台となる建設現場までやってくる。市街地にやってきて建設現場に入る前にまず目を惹くショットがある。廃墟となったビルと新しいビルを隣り合わせに、対照的においたショットだ。フライヤーにもある通り、これは建設と破壊に関する作品であり、このショットはその宣言となっている。

 

そしてこれもフライヤーにある通り、この作品はドキュメンタリーである。が、観ていくにつれ、ドキュメンタリーではあっても、かなりフィクショナルな描き方をしている作品であることに気づく。

ボイスオーバーで語られる「出稼ぎから時々シリアに帰ってくる父」と「その父がベイルートから持ち帰った海の絵」と「セメントの匂い」の思い出話は、事実なのかそうでないのかわからない。なぜなら、本作に登場する労働者たちは一切口を開かないからだ(もちろんそのように編集されているということである)。それ故にこの話を特定の誰かに紐づけることは難しい。つまりこれは、彼らのようなシリアからの出稼ぎ労働者たち全てを象徴する物語なのだろう。原題の『TASTE OF CEMENT』(セメントの味)は、そんな彼らの父たちが、出稼ぎ先の建設現場から持ち帰る身体に染み付いたセメントがもたらす味のことであると観客は理解する。しかし、この作品が建設と破壊に関する話であることを忘れてはならない。この味にはもう一つの側面があるのだ。

 

建設という行為は、一般的には明るい未来を感じさせるが、本作においては必ずしもそうではない。

労働者たちは、建設途中の建物の地下で寝起きしている。ところどころ水たまりのあるような、ただのコンクリート剥き出しの空間に、それぞれが寝起きする場所を作り、そこから毎朝上階の建設現場へと向かう。仕事が終わればまた地下へ帰って行く。毎日がその繰り返しだ。「シリア人労働者の午後7時以降の外出を禁じる」という注意書きの横断幕がある。これは法律なのかどうかはここでは確認できない。すぐ近くには美しい地中海が広がっているが、労働者たちは現場から労働の合間にそれを眺めるだけだ(この美しい海の底には戦争の負の遺産がごろごろと転がっていることを観客は後で知ることになる)。

 

建設現場の高層階でクレーンのアームが左右に動く。観客は運転台の位置にいる。そこからアームの背景の美しい海を見ていると、アームに戦車の砲身がオーバーラップしてくる。そして背景は破壊の限りを尽くされたどこかの市街地に変わる(そこがアレッポとわかる表現が作中にあったかどうか思い出せない)。砲身も左右に動き、時折発射する。あたりはもう破壊し尽くされているにもかかわらず。砲身は背景とともにもう一度アームに変わり、また砲身へと変わる。このシーンの視覚効果にはハッとさせられた。建設と破壊を対比させたストレートな表現だ。

ここでハッとさせられるのは視覚だけではない。建設と破壊の対比と相似は音響的にも表現されている。百聞は一見に如かずと言うが、見えるものよりも音によって感覚的に深いところで理解することもあるのだと気づいた。

 

これを機に、場面は淡々とした建設現場から一変して、瓦礫に埋もれた人々を救出する騒然とした現場へと観客を連れて行く。

セメントのもう一つの味とは、瓦礫の味だ。爆撃によって破壊された建物の瓦礫の中に埋まった時に味わった味である。

 

戦争は悲惨だ。それは頭で理解できるし、心で感じもする。しかし感覚ではどうだろうか。現代に生きる私たちは、戦争被害の写真や映像をその戦争が終わる前から(良くも悪くも)見ることができる。そして大抵の人は心を痛め、戦争の終わりを強く願う。けれども実際それがどれくらい怖ろしいことなのか、私自身について言えば、本当にはわかっていない。痛みは、身体的であれ心理的であれ、感覚的なものであるから、感覚にダイレクトに響かないと、それを我が事のように思うことは難しい。

本作は、映像と音響を用いて建設と破壊とを巧みに対比させることによって、グロテスクな映像を採用することなく、戦争のもたらす身体的/心理的痛みを観客の感覚に響かせることに成功している。

 

終盤、カメラはまたベイルートの道を走る。映像はぐるぐると回っている。コンクリートミキサー車のミキサー部分から見た映像だ。建設と破壊を繰り返す私たちは、このように常にぐるぐると回っているということなのかもしれない。

現場に戻ったカメラが、まだ外壁の出来ていない上階からの美しい海と夕日、左側の壁際の椅子に座る労働者の姿をとらえた、一枚の絵のようなラストショットが静かな余韻を生む。

一編の映画を観るとともに、聞きごたえのある音楽を一曲聴いたような印象を受ける作品である。