WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

つなぎ目として生きる男『JOINT』

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2020年製作/118分/G/日本
配給:イーチタイム

監督:小島央大

脚本:HVMR

エグゼクティブプロデューサー:キム・チャンバ

撮影監督:寺本慎太朗

照明:渡邊大和

録音:五十嵐猛吏

出演:山本一賢、キム・ジンチョル、キム・チャンバ、三井啓資、樋口想現、尚玄、平山久能、鐘ヶ江佳太、林田隆志

 

joint-movie.com

 

刑務所から出所し、地方で一年間肉体労働をしてクリーンな資金を作った石神武司(山本一賢)は、カタギの友人ヤス(三井啓資)の援助で東京へ戻り、詐欺用の名簿ビジネスを再開する。
その後、ヤスの勧めでベンチャー企業に出資してカタギを目指すが、取引先に過去を調べられ、手を引かざるを得なくなる。
一方、武闘派を破門にした関東最大の暴力団・大島会と、破門された者たちが作った壱川組との抗争が激化し、大島会とつながりのある石神もその渦に巻き込まれて行く…

 

公式サイトのあらすじにも半グレと記載されている石神だが、彼のような“フリーの”半グレという職業(?)は存在するのだろうか。

半グレという表現は通常「半グレ集団」というように複数の人間に対して使用され、暴力団に指定はされていない犯罪集団を指す。どの集団にも属していない石神は、半グレというより、後輩の渡辺佑(鐘ヶ江佳太)が所属する暴力団・大山会の電話詐欺部門(?)のいわば下請けだ。一見カタギの友人ジュンギ(キム・ジンチョル)からデータを仕入れて使えるものに加工して佑に卸すのである。

 

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あえていうなら、飛ばし携帯の売買や中古携帯からのデータ抜きなど行なっているジュンギとイルヨン(キム・チャンバ)と、彼らが取りまとめる他の韓国人たちこそ半グレなのかも知れない。しかしジュンギが経営する焼肉屋は偽装でなく本当の商売なので、やはり半グレとは言い切れない気もする。カタギが裏で闇商売をしている、というのが一番近いだろう。

 

石神は、大島会(ヤクザ)とつながる一方、ヤス(カタギの友人)にも要所要所で助けられつつ交友を続ける。カタギを騙す仕事に加担しながらベンチャー企業に出資しカタギになろうとする。そのありようはヤクザとカタギをつなぐジョイントであり、ジュンギを通して外国人犯罪組織リュードともつながることで日本と海外の犯罪世界をつなぐジョイントにもなっている。

電話で行ういわゆる特殊詐欺が半グレの代名詞となっているので、我々観客は本作で半グレの生態を垣間見たような気になる。しかし実はそうではなく、どこにも属さずジョイントとして生きる男が、どこにも根付くことができないまま世界を浮遊する様子を見たのだ。

このような男が現実に存在できるかどうかはわからない。

実際、石神と今村(林田隆志)と佑との関係性はどうにも不自然だ。ヤクザである今村が組に属さない石神に、佑のことを「面倒見てやってくれよ」と託すが、実際にこんなことはあり得ないだろう。普通は組に属する者にそれをさせるか、石神を組に引き込むかどちらかではないだろうか。今村は石神を組に誘うことはするが、“一応言ってみる”程度の弱い勧誘しかしない。自分たちのシマで、“下請け”という形でフリーのまま商売をさせているのである。

 

どこにも属さず、かつそれぞれの世界に協力者や好意を持ってくれる人を持つことができる人物はフィクションにはよく登場する。これは相当な人たらしでなければ成り立たない。石神の人たらし的側面のエピソードや描写があれば、作品のリアリティは増しただろう。

リアリティの面で描いて欲しかった点はまだある。

飛ばし携帯の手配や中古携帯からのデータ抜きを依頼していたジュンギに「もう来月からいいから」と突然簡単に切り捨てる石神もどうかと思うが、なによりも「情」を大事にする韓国人のジュンギがあのような切り捨てられ方をしたあと簡単に石神を許すことはちょっと考えられない。ましてやジュンギよりも熱い性格が見て取れるイルヨンが、ヒョンニム(アニキ)と呼ぶ仲になった石神の冷徹な仕打ちを許すだろうか。まあでも、ジュンギから言われたなら従うだろうとは思う。しかしジュンギが石神を許すならば、二人は相当な絆を持つ仲であるはずであり、であるならその部分をどこかで描かなければならなかった。(余談だが「ヒョンニム」より「ヒョン」の方が親密度はやはり高いのだろうか。そうだとすると、イルヨンが石神を「ヒョン」でなく「ヒョンニム」と呼んだことはリアリティがあるように思う)

 

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色々と疑問な点はあったが、ともすればそれらに気づかずじまいになるくらい、映画としての感触が良い作品だった。感触とは、画面の色合いや明暗、カメラの動きや画角、それによって醸し出される雰囲気や空気感、世界観のようなもののことだ。たいへん曖昧な言い方になってしまうが、本作自体曖昧なところをたくさん含んでいる作品なので、曖昧な感想でも勘弁して欲しい。

技術的な面では、音楽とセリフの音量のバランスがよくないところがあり、音楽がナレーションも含むセリフの邪魔をしている場面が多々あった。音楽なしの場面でもよく聞き取れないセリフも多く、そのためによくわからない場面もあった。個人的には聞き取れないセリフはあってもいいと思う。ナレーションは全て不要と思った。

本作では「映画の不思議」を体験した気がする。たとえば本作の主要キャストが、ヤクザ映画で名を轟かせている俳優たちだったらどうなっていただろうか。おそらく全く別の作品になっていただろう。映画においては、演技は上手ければいいというものでもないのかもしれない。映画における俳優の役割というものについて改めて考えさせられた。

カメラはかなり動き、カットも頻繁に入る。始終動くカメラは画面を落ち着かないものにする。それはまさに“落ち着かない石神”の人生そのものだ。そういう画面を重ねて来た後のラストシーン、車のフロントガラス越しの石神の顔のロングショットは印象的である。

 


www.youtube.com

 

 

日本のアクションはすごいことになっていた 『ベイビーわるきゅーれ』

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2021年製作/95分/PG12/日本
配給:渋谷プロダクション
監督・脚本:阪元裕吾
アクション監督:園村健介
エグゼクティブプロデューサー:鈴木祐介
出演:高石あかり、伊澤彩織、三元雅芸、秋谷百音、うえきやサトシ、福島雪菜、本宮泰風

 

https://babywalkure.com/

 

仕事としての殺しを淡々とこなす女子高生の殺し屋、杉本ちさと(高石あかり)と深川まひろ(伊澤彩織)が、高校を卒業して殺し屋の寮?から自立しなければならず、共同生活を始める。ひょんなことから私怨がらみの殺しをやらざるを得なくなり、最終的に大暴れ、というストーリー。なんで女子高生が殺し屋? とかはわからないけれども、それは別にどうでもいい。部屋ではダラダラしている今時の若い女の子がプロの殺し屋だというギャップを楽しめばいいだけだ。

阪元裕吾監督について、公式サイトに「大学在学中に圧倒的な暴力描写で自主映画界を席巻」とある通り、何と言ってもアクションシーンがすごい。

 

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先日noteに書いた韓国ドラマ『マイネーム:偽りと復讐』の記事に「こういうハードボイルドな“女の子”を演じられる俳優が、日本にはいない気がします」などと書いてしまったが、こんなところにいた。伊澤彩織さん。すごいです。

 

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日本映画もドラマもろくに観てこなかったから、アクションがこんなに進化しているなんて知らなかったし、伊澤彩織さんの存在も知らなかった。

本作のラストはヤクザ(とヤクザから依頼された?男たち)が大勢いるところに二人がカチコミしてバトルが展開されるシーンだ。昔のアクションだったら、こういう場合、主人公がバーっと行くところへ向かってくる敵を「せーの」で合わせたように右に左に倒して行くような感じだった。つまり、観客からもダンスの振り付けのように見えてしまうような、体の動きとしては一般人にはできないかもしれないけど、暴力の切実さみたいなものが抜け落ちているようなシーンになっていた。

本作を観て、日本の映像作品におけるアクション・暴力シーンの印象がアップデートされた。素人には把握できない動き。そう来てこう来てこうでしょ、という決まりごとがほとんど見えない。スピード感もすごいし、それを自然に見せるカメラワークもすごい。園村健介アクション監督は、2002年から多くの映画、ドラマ、ゲームでアクション監督をされて来たようだ。またスタントとして出演もしている。だから日本のアクションシーンはとっくにすごいことになっていたのかもしれない。

時々セリフが聞き取りにくいところがあったり(これは自分の耳の衰えのせいかもしれない)、明るいちさとが騒がしすぎると感じるところもあったが(これも自分の衰えのせいかも)、二人のキャラクターと関係性はよかったし、何よりアクションが良くて、それだけでも観てよかった。

 


www.youtube.com

 

伊澤彩織さん主演でシリアスなアクションものという作品も、今後出てくるのではないだろうか。期待したい。

『MONOS 猿と呼ばれし者たち』

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2019年製作/102分/R15+/コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデンウルグアイ・スイス・デンマーク合作

原題:Monos

配給:ザジフィルムズ

監督・製作:アレハンドロ・ランデス

脚本:アレハンドロ・ランデス、アレクシス・ドス・サントス

撮影:ヤスペル・ウルフ

編集:ヨルゴス・モブロプサリディス

音楽:ミカ・レヴィ

出演;モイセス・アリアス、ジュリアンヌ・ニコルソン、ソフィア・ブエナベントゥラ、フリアン・ヒラル

公式サイト:http://www.zaziefilms.com/monos/

 

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冒頭、壮大な自然を背景に、高台で複数の人々が何かをしている様子が遠くから映し出される。カメラが徐々に寄って行くとようやく、その人々は年若い者たちであり、どうやらブラインドサッカーをしているのだということがわかる。

 

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そこは高台であるということだけはわかるが、他になんの目印もなく、人工的とも言えるような独特な色彩から、まるでどこか他の惑星のようにも見えるし、あるいは近未来の一風景のようにも見える。

 

予告動画やウェブサイトにある文言によって、本作がゲリラ組織に属する少年少女兵たちの話だということは事前に知ることができる。彼らはどこかの山岳地帯で一人の女性を人質として監視し世話をしている。私たちにわかることはそれだけだ。
本作には作品の背景について、キャプションなどはないし、セリフや映像においても、説明的な表現は一切ない。

 

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そこがどこなのか、いつなのか、彼らが誰なのか、属しているのはどんな組織なのか、なぜそこに属することになったのか、彼らと敵対するのは誰/どんな勢力なのか、人質の「博士」と呼ばれる女性は誰なのか、なんの目的で誘拐されたのか、時折起こる戦闘は何のためなのか、相手は誰なのか。沸き起こるさまざまな疑問に、最後まで明確な答えを得ることはできない。そしてそのことが作品の質をまったく損なっていないどころか、むしろ作品に普遍性を与えている。

本作中に発生するいくつかの死は、物語の背景を共有しない我々観客にとっては、全く無意味なものに見える。戦争は通常何らかの背景を持つものであり、当事者はその背景によって(双方異なる)正当性を主張する。そしてその限りにおいてのみ、そこで発生する死に意味を持たせることができるのだ。背景がない戦いとそれに付随する死は無意味であり、その背景は、実はそもそも当事者以外には理解できないか無意味、つまり、無いも同然なのだ。その意味において戦争は人の死を極限まで矮小化=無意味化する。本作はそのことを実感させてくれる。

 

本作は、少年少女たちの来歴や彼らの心理を感情的に描いて同情を誘うような手法を取らず、一切の背景を省き、“無意味な”戦いの中に置かれた彼らの動きを理性的に描写することにより、子ども兵士を産む社会や戦争を間接的に批判することに成功している。

 

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少年たちがじゃれあう牧歌的なシーンに、突如として銃声や爆発音が発生する。予想外のタイミングと方向から銃声が上がり、戦闘がいきなり始まる。そのようなシーンに驚かされる事によって、私たちは暴力の暴力性を改めて知ることになる。普段、映画やドラマの戦争や戦闘シーンを、いかに予定調和的な見方で観ていたかに気づかされるのである。

 

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カメラは、人の肌のきめや水の中の気泡の粒にまで寄るかと思えば、サーッと引いて高地の大自然を映し出す。時にじっくりと構え、時に対象とともに動く。ドキュメンタリータッチに見えることもあれば、実験映画のようなショットもある。ともすれば映像スタイルに一貫性がないように見えるほど自在だ。色彩も独特である。

マジックリアリズム的、というようなことも言ってみたい気がするが、いかんせんそれについての知識が乏しく、残念ながらとても引き合いに出せない)

 

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ロケ地となっている4,000m級の高地(富士山より高い)、激流の川、深い森、このように力強くギラギラと激しい自然を持つ南米という地域(一括りにするのは乱暴なこととは思う)は、そこで生まれ育つ人々をも強く激しくするに違いない。各地で内戦が起こり、それが長期化するのもそのような激しさを内包するゆえなのかもしれないと思えてくる。本作の撮影環境が厳しいものであっただろうことは言うまでもない。

 

ミカ・レヴィの音楽(*)は、本作の不穏さや寓話性を増幅させ、特異性を際立たせている。例えば本作に音楽がなかったら、よりドキュメンタリーに近い手触りになっていただろうし、クラシックのような音楽が使用されていたなら、全く違った印象を与える作品となっていただろう。

 

本作鑑賞前には『地獄の黙示録』(1979)や『蝿の王』(1963/1990)を連想したが、鑑賞後に思い浮かんだのは『2001年宇宙の旅』(1968)や『フルメタルジャケット』(1987)だ。しかしそれらに似ているというわけではなく、私自身の映画鑑賞歴が乏しいせいかもしれないが、これまで観たことがないタイプの映画である。「映像体験」という言葉があるが、それがふさわしい作品であるように思う。



Spotifyサウンドトラックを聴くことができる。(https://open.spotify.com/album/1p6acRNSUA1U4B5TvO333H

 また、公式サイトではサンプルが聴ける。

 

幸運にも、本作を配給されたザジフィルムズ主催の試写会にて一般公開前に鑑賞できた。

10月30日(土)からシアターイメージフォーラムにて一般公開される)

 

身も蓋もない現実 『幸福(しあわせ)』

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1965年製作/80分/フランス

原題:Le Bonheur

配給:ザジフィルムズ

日本初公開:1966年6月4日

監督:アニエス・ヴァルダ

製作:マグ・ボダール

脚本:アニエス・ヴァルダ

撮影:ジャン・ラビエ クロード・ボーソレイユ

音楽:ジャン=ミシェル・デュファイ

出演:ジャン=クロード・ドルオー、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ、サンドリーヌ・ドルオー、オリビエ・ドルオー

 

 

アマゾンプライム会員の方は現在無料で視聴できます)

 

ヌーヴェルバーグの祖母といわれるアニエス・ヴァルダ監督の『幸福(しあわせ)』を始めて見たときは衝撃を受けた。本作で扱われているのはありふれた“妻子ある男の不倫”だが、その扱われ方はよくあるものではなかったからだ。これほど官能的でない不倫映画を、私はほかに観たことがない。

映像の面では、絵画的な風景や原色使い、赤と青の対比や状況を表す看板文字などが目を引く。クラシック音楽はほとんど知らないが、本作で使用されている、のどかでありながら悲哀や陰影を含むようなモーツァルトの楽曲は、本作の本質を突くような選曲だと思う。

 

あらすじ

叔父のもとで働く内装職人のフランソワ(ジャン=クロード・ドルオー)は妻のテレーズ(クレール・ドルオー)と二人の子どもたちと仲睦まじく暮らしている。裕福でないにしろ生活に不満はなく、幸福な日々を送っている。

ある日出張先で、郵便局の窓口にいたエミリー(マリー=フランス・ボワイエ)を見初めてカフェに誘う。その後、偶然エミリーがフランソワの住む街に引っ越して来て、二人は逢瀬を重ねるようになる。

そんな関係がひと月ほど続いたある日、いつもの家族のピクニックの際、フランソワがテレーズに、ほかに愛している女性がいることを打ち明ける。

 

個人的な印象だが、テレーズといえば『嘆きのテレーズ』(1953)や『テレーズの罪』(2012)などのせいか、死や犯罪のイメージがつきまとう。どちらも映像作品は見ていないのだが、それぞれ原作のエミール・ゾラ著『テレーズ・ラカン』(1868年刊)とフランソワ・モーリヤック著『テレーズ・デスケルウ』(1927年刊)は読んでいる。前者に至っては19世紀の作品だが、現代的な問題を含んでいて、今読んでも面白いと思う。

 

       

 

 

これらの印象が強いため、フィクションの中のテレーズという女性が何事もなく幸福でいられる気がしない。『幸福(しあわせ)』と題された本作の、明るく優しく気のいい妻の名前がテレーズなのもおそらく偶然ではないと思う。

テレーズ・ラカンもテレーズ・デスケルウも自身の行動によって物語を動かす。本作のテレーズはどうだろうか。

 

 

(以下、内容に触れますのでご注意ください)

 

 

夫と子どもたちを愛し、世話をし、洋服の仕立ての仕事をするテレーズには何も問題はなく、フランソワもそんなテレーズを愛していると言う。浮気の原因など見当たらない。発端は、申し分ない生活の中、フランソワが“出張先で可愛い子に出会った”というだけのことなのだ。

 

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フランソワがエミリの部屋に初めて行った時、初めてのキスの後、エミリが言う。「私“も”愛してる」。しかしここでフランソワはエミリに「愛している」とは言っていない。ただ見つめてキスしただけだ。

 

時に恋はこのように判断を誤らせる。現実を見ずに期待が先走り、自分が思うこと/感じることを現実と思ってしまう。言われてもいないことを聞いてしまうのだ。のちにフランソワもエミリに「愛している」と言うことにはなる。しかし監督はこのシーンでは言わせなかった。それによって、私たちはハッとするのだ。恋がいかに独りよがりなものなのかを知って。

 

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エミリと深い関係になってからも、フランソワは悪びれることなくエミリに向かって「妻を愛している」と言う。最初からそう言っていたし、納得づくで始まった関係だから、彼にとっては隠す必要のない気持ちなのだ。しかも彼曰く、“自分は嘘のつけない男”なのである。だからエミリにも「愛している」と言う。

 

妻を愛している。彼女は僕に喜びをくれる。君と出会って、君を愛する。二人とも僕に喜びをくれる。幸せが重なっていく。

妻と結婚したのは妻と先に出会ったからだ。君と先に出会えば君と結婚していた。君に嘘はつけない。こうなったのは僕のせいじゃない。順番なんだ。

テレーズは植物で、君は自由な動物だ。僕は両方愛している。

 

エミリとのピロートークで、フランソワが嬉々として“愛”と言っているものの正体はなんなのだろうかと、私たちは考えずにはいられない。フランソワはエミリについて性的魅力のことしか語らないし、エミリにもテレーズにも「愛している」「幸せだ」とは言うが、その言葉の中身については何も言わない。彼が愛していると繰り返すほど、私たちはその言葉の空虚さに寒々しくなるのである。

いずれにせよこのシーンでのフランソワは間違いなく“幸福”そうで、それに対してどう思ったらいいのか、私たちは(少なくとも私は)困惑する。

その後のシーンでヴァルダ監督は、散歩中のフランソワとテレーズに非常にアイロニカルな会話をさせている。好きなものは毎日でも食べたい、ポテトフライにチョコレート、そして君は二番目のデザートだ、と言うフランソワに対し、「メニューに変化は必要よ」とテレーズに言わせているのである。

 

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テレーズと一緒に行くのは最後になってしまうピクニックで、フランソワが「最高だ。ここは本当に最高だ。何も考えたくないね」と言うが、これも皮肉といえば皮肉だ。フランソワは最初から(そしておそらく最後まで)何も考えていない。考えていないからこそこんな風に生きられるのだ。もしも何か考えているとしたら自分の幸福のことだけに違いない。

フランソワにとって幸福とはつまり安寧であり、子どもでいられる状態のことだ。あれが好きでこれも好き、と言って誰からも咎められない、食べたいときに食べたいものを食べられる生活である。

「ぼくは本当にとても幸せだ」と言い、あまりに幸福そうなフランソワに、テレーズがその理由を尋ねる。フランソワは“嘘がつけない”から全てを打ち明けてしまう。

 

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僕たち家族はりんご畑にいる。でもその外にもりんごの木はあり、実がなっている… こんな例え話でテレーズはすべてを悟る。

「誰かあなたを愛している人がいるのね、私のように」

フランソワは「君のようにではないよ」と言い、続いてめちゃくちゃな例え話で愛人との関係を続けられるようテレーズを説得しようとする。仕切りに「わかるかい?」と確認しながら。

 

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当然ながら「わからないわ、そんなこと」と言うテレーズに、フランソワは「君がやめて欲しいというなら彼女とは会わないよ、君に幸せでいて欲しいんだ、僕と一緒に」と言いつつ、でも、と続ける。「愛を禁じるのは馬鹿げてるだろ? これまで通り、いやこれまで以上に僕を愛してくれるかい?」

たぶんできると思う、と、テレーズがなんとなく説得されたような形になり、ひとまずこの件はうまく収まったかに見えた。

収まったかには見えたが、よく考えればフランソワの言い分は身勝手極まりなく(しかも変な例え話で煙に巻くような非常に不誠実なやり方だ)、その理不尽さに観ているこちらの腹が立ってくる。一体何を考えてるんだ、と。しかし、繰り返しになるが、彼は何も考えていないのだ。そこが彼のすごいところ/強いところなのである。

何も考えていないからこそ、この後すぐ溺死するテレーズの、その死を一通り悼んだ後、早々に、エミリを新たな妻として迎え(後添いという言葉がこれほどピッタリくる状況はそうない気がする)、テレーズと一緒だった頃と寸分違わぬような生活を続けることができるのだ。

残念ながら本作のテレーズは、死を持ってしても物語を動かすことができなかったのかもしれない。何も考えていない者を前にしたテレーズは無力な存在だったのだ。

 

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何も考えていない者は、いとも簡単に幸福を感じることができる。フランソワは幸福だ。昨日も今日も、そしておそらく明日も。

アニエス・ヴァルダが本作で見せてくれる身も蓋もない現実によって、私たちは「幸福」の意味を改めて問い直すことになるだろう。



(かなり私的な)スケーターの世界について

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ドラマや映画そのものではないけれど、これまでに観た映画と関連する話題について少し書こうと思う。スケートボードの世界の話だ。

東京オリンピックは、セレモニーも競技も何一つ見ていないし結果もほとんど知らないが、今回正式種目になったスケートボード競技で日本人選手が活躍したことはネットニュースで見た。堀米雄斗選手である。

自分ではスケートをしないし(というかできない。もっとずっと若い頃にできるようになっておけばよかったと常々思っている)、競技の情報を追いかけることもないが、スケートボードという遊び(あえてこう言います)と、スケーターたちに関心がある。

それについてはこの記事で少し触れた。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

そういうこともあって、金メダルを獲った堀米雄斗選手についても興味を持ち、ネット上に散見するエピソードをいくつか読んでみた。

全てネット上の情報であるし、それについて真偽のほどを確認してはいないが、人物や境遇がやはり興味深く、時間を忘れてネットサーフィン(この言葉は今でも通用するのだろうか)してしまった。

堀米選手を巡る状況は、上に引いた過去記事で紹介している映画におけるスケーターたちのそれとは、大きく違っている。これは予想通りだ。

堀米選手は、最初は父親であり自身もスケーターである涼太氏に連れられてスケートを始めたそうだ。これは、日本の子どもたちが、たとえばサッカーや空手やピアノやバレエを始めるのと同じような感覚だと思う。それに対し映画の中の彼らは、親に連れられて何かを習い始めたりするような境遇にない。意識的にしろそうでないにしろ、むしろ親から離れた所に居場所を求めるような思いでスケーターたちの世界に入っていく。スケートを始めるというより、スケーターたちの世界に入っていくのだ。

これが実に不思議なことなのだが、一見違って見える“堀米選手のような人たちが属するスケーターの世界”と“スケーター映画(仮にそう名付ける)に見るスケーターの世界”は、分断されているようでいて実はそうではないのではないかという気がしてならない。堀米選手にまつわるエピソードを読んでいて、改めてそのように感じた。そして、それだからこそ私はその世界に惹かれるのかもしれない。

父親の涼太氏は、最初こそ堀米選手にスケートを教えたが、その成長につれて指導からは手を引いている。その後堀米選手は国内のプロ選手の手に委ねられた。この父親の引き際は見事だ。これは涼太氏個人のキャラクターによるのかもしれないが、私はここにスケーターの世界に通底する世界観のようなものを感じる。それは年齢や境遇を越えたフレンドリーな繋がり、ブラザーフッドシスターフッドのようなものである。

親や教師といった固定的な教育者から固定的な方法で学ぶのでなく、単に上手な人から学ぶ。上手な人は学びたがっている人に教えてあげる。あるいは技を見せてあげたり、ただ一緒に過ごすことで学びをもたらす。そこにはブラザーフッドシスターフッドの根底にある“ただの親切心”みたいなものがまずあって、人と人との繋がり合いの中の一つの形として学びというものがある、というような気がするのだ。これは他の、たとえば(日本の)野球などとは全く違った世界である。

堀米選手は、高校卒業とともに本格的にアメリカに拠点を移したが、高校一年生の時に一度留学している。その際、ロサンゼルスに住むフィルマー(スケーターの映像撮影者)鷲見知彦氏にInstagram経由で連絡を取り、数ヶ月泊めてもらった、というエピソードも、私が持つ世界観のイメージを強化する。フィルマーも含むスケーターたちの世界には様々な垣根が存在しない(か、あっても低い)のだ。

ちなみに鷲見氏の作品の一つがこちら。

 


www.youtube.com

 

年齢、境遇どころか国や民族といった隔たりすらスケーターの世界にはない。ただそれぞれのスタイルを持ったスケーターが存在するだけだ。だから複雑な手続きなしに繋がり合える。そして、そういうフラットな関係だから互いにリスペクトしあえるのである。

もしかしたら私は彼らの世界を理想化しすぎているかもしれない。外側から、遠くから眺めているだけに過ぎないから、間違った認識をしていてもおかしくないとは思う。

私は他者と、年齢や境遇、国籍や民族、性別や立場などに関わらず、個人対個人のフラットな関係を築きたいと常々思っていて(というか、そういう風にしか他者を見ることができない。肉親に対してすらそうだ)、それが簡単にできない社会は疲れるし生きにくいと思っているので、スケーターたちの世界に勝手に理想を見てしまっているのかもしれない。

少なくとも“日本の普通の会社員(私のことだ)が生きているような世界”よりは理想に近い世界にどうしても見えてしまう。そしてあの“特別な乗り物”に乗れない自分を恨めしく思うのである。

堀米選手は、ボードに乗る以外にトレーニングはしないそうである。また、スケートについて、競技と遊びでは遊びの感覚の方が大きいと言っていた。この二点を知って、ますます好感を持った。全く正しい。そのまま続けて行って欲しいと思う。

そして、スケートボードがオリンピック競技になり、コンテストが試合となることで、スケーターたちの世界が変な風に変わってしまわないことを切に願っている。

 

名もなき人々へ 『名もなき歌』

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『名もなき歌』

2019年製作/97分/ペルー・フランス・アメリカ合作

原題:Cancion sin nombre
配給:シマフィルム、アーク・フィルムズ、インターフィルム
監督:メリーナ・レオン
製作:インティ・ブリオネス、メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
脚本:メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
撮影:インティ・ブリオネス
美術:ジゼラ・ラミレス
編集:メリーナ・レオン、マヌエル・バウアー、アントリン・プリエト
音楽:パウチ・ササキ
出演:パメラ・メンドーサ・アルピ、トミー・パラッガ、スぺルシオロハス、マイコル・エルナンデス
公式サイト:
映画『名もなき歌』公式サイト

 

あらすじ

1988年、政情不安に揺れる南米ペルー。貧しい生活を送る先住民の女性、20才のヘオルヒナは、妊婦に無償医療を提供する財団の存在を知り、首都リマの小さなクリニックを受診する。数日後、陣痛が始まり、再度クリニックを訪れたへオルヒナは、無事女児を出産。しかし、その手に一度も我が子を抱くこともなく院外へ閉め出され、娘は何者かに奪い去られてしまう。夫と共に警察や裁判所に訴え出るが、有権者番号を持たない夫婦は取り合ってもらえない。新聞社に押しかけ、泣きながら窮状を訴えるヘオルヒナから事情を聞いた記者ペドロは、事件を追って、権力の背後に見え隠れする国際的な乳児売買組織の闇へと足を踏み入れるが―。(公式サイトより)

  

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南米で先住民の女性を描いたモノクロ作品というと、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA』(2018)が記憶に新しい。客観的なカメラで政治的混乱に揺れる1970年から1971年のメキシコを静かに描いた作品だ。

 

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ペルー先住民の暮らしの閉塞感

『ROMA』の主人公の先住民女性クレオは、街中に住む裕福な白人一家の家政婦だったので、伝統的な文化の類はほとんど登場しなかった。本作『名もなき歌』の主人公ヘオルヒナは、同じ先住民で民族舞踊の踊り手である夫レオと丘の中腹に建つ簡素な家に住み、先住民のコミュニティの中で暮らしている。そのため作中に民族楽器の演奏と歌やダンスの場面が登場する。本作の方が『ROMA』より20年近く新しい時代設定だが、逆のような印象を受けるのは、洗練された都会の文化を感じさせる場面があまりないからかもしれない。

 

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ちなみに本作は、1980年代に実際に起こった国際的な乳児売買事件を元に作られたフィクションである。メリーナ・レオン監督は、当時この事件を調査していた新聞記者だった父親からこの話を聞き、映画を作るに至ったとのことだ。

 

本作に特徴的なこととして、モノクロであることの他に画面サイズがあげられる。4:3のスタンダードサイズをあえて採用したことにより、作品世界の閉塞感が画面から伝わってくる。ヘオルヒナが暮らす広々とした丘でさえ、画面から受ける印象に開放感はあまり感じられない。また、スチルではわからないが、上映時にうっすらと画面の輪郭がぼやけているのは、敢えてそうしていて、当時のテレビ画面を模しているのだそうだ。

 

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女性であることの不利益と様々な社会問題

民族やジェンダーによる差別、同性愛への偏見、貧困、人身売買、インフレ、官僚や政治家の腐敗、テロリズムなど、本作で扱われる問題は数多いが、全編を通して台詞は最小限で、出来事と清冽な映像の示唆によって静かに語られる。『ROMA』でもそうだったが、本作でも、この国の歴史や政情を知らないとわからない部分もあるだろう。しかしそういった部分を除いても普遍的な問題については十分理解できる。

 

『ROMA』のクレオは、授かった子どもを産むことができなかった。本作のヘオルヒナは出産直後に子どもを奪われている。現れている現象は違うが、ことの本質は同じだ。ヘオルヒナもクレオ原住民であることと女性であることで、二重に虐げられている。二人とも他者から人間性を奪われているのである。

 

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ヘオルヒナの夫レオが、貧しさから仕事を求めるあまり踏み出してしまう方向は、クレオの恋人が走った方向とは逆だが、これもまた本質的には同じだ。経済的に逼迫していると、行動の選択肢が狭められる。やらずもがなのことまでやりかねないのだ。名目はどうあれ、二人の行動は暴力に他ならないが、二人には他にどのような選択肢があっただろう。(これは形式疑問文ではなく本当の疑問文だ)

 

この二作は、扱うエピソードも違うし表現方法も違うが、テーマの根本はほぼ同じなのだと思う。

 

メキシコやペルーで起こっていた(/いる)、これらの社会問題は日本には関係ないだろうか。

江戸時代には子どもが売り買いされていた日本でも、流石に現代では、官僚や政治家まで関与して生まれたての子どもたちを海外へ売るというようなことは起こらないだろう(確信はないが)。しかし日本で暮らす様々な人々が様々な理由で不当な扱いを受けている例は枚挙にいとまがない。いつ自分がヘオルヒナになってもおかしくないのだということは、頭の隅に置いておいたほうがいい。

 

不当に子を奪われ、(今は)虚しく子守歌を歌うしかないヘオルヒナの幸せを願うなら、自分にできることは何かを考え、行動していくしかない。それがたとえ取るに足らないようなことであっても。




孤独の中で触れ合う魂 『少年の君』

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『少年の君』

2019年製作/135分/G/中国・香港合作
原題:Better Days
配給:クロックワークス
監督:デレク・ツァン
脚本:ラム・ウィンサム リー・ユアン シュー・イーメン
撮影:ユー・ジンピン
出演:チョウ・ドンユィ、イー・ヤンチェンシー
公式サイト:https://klockworx-asia.com/betterdays/

 

あらすじ

進学校に通う成績優秀な高校3年生のチェン・ニェン。全国統一大学入試(=高考)を控え殺伐とする校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜め卒業までの日々をやり過ごしていた。そんな中、同級生の女子生徒がクラスメイトのいじめを苦に、校舎から飛び降り自らの命を絶ってしまう。少女の死体に無遠慮に向けられる生徒たちのスマホのレンズ、その異様な光景に耐えきれなくなったチェン・ニェンは、遺体にそっと自分の上着をかけてやる。しかし、そのことをきっかけに激しいいじめの矛先はチェン・ニェンへと向かうことに。彼女の学費のためと犯罪スレスレの商売に手を出している母親以外に身寄りはなく、頼る者もないチェン・ニェン。同級生たちの悪意が日増しに激しくなる中、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、とっさの判断で彼シャオベイを窮地から救う。辛く孤独な日々を送る優等生の少女と、ストリートに生きるしかなかった不良少年。二人の孤独な魂は、いつしか互いに引き合ってゆくのだが・・・。(公式サイトより)

 

複雑な構造の街で起こる、いじめに端を発した物語

映画館で予告を見て、まずその色彩に惹かれた。
これは、いじめという名の苛烈な暴力が、複雑な構造の街の淡い光の中で展開される物語だ。
この街(重慶だそうだ)を舞台に選んだことは、本作の成功に間違いなく一役買っている。重層的な構造、明るさと暗さといった街の複雑な顔が、作品を重層的にし深い世界観を構築する大きな要素となっている。

主人公の少女チェン・ニェン(チョウ・ドンユイ)の家から学校までの道のりは、坂道や階段やエスカレーターでアップダウンする。道の高低差が高い塀のようになっていたり、低い位置から見上げた道のさらに上に高層ビルが立ち並んでいたり、そうかと思えば鬱蒼とした並木道があったり、これがまるで、例えば主人公が暗い森を抜けてどこかへ行くファンタジーのような、異世界への道のりであるかのように感じられる。いつどこから何が出て来るかわからない不穏さが漂っているのだ。この場合、異世界なのは学校なのかチェン・ニェンの家なのか、あるいは両方なのか、それはわからない。

異世界を行き来するチェン・ニェンは、クラスメイトの自殺事件をきっかけに、学校世界で権力を持つ金持ちの女子生徒たちにとっての“異物”となり、激しいいじめ(というよりはっきり暴力といったほうがいい)を受けるようになる。

 

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本来なら砦となるはずの自分の家に、守ってくれるはずの母はいない。“悪気なく”危ない商売をして追われる身の母は、チェン・ニェンにとってただ一人の肉親だが、“悪気なく”チェン・ニェンを置いてどこかへ行ってしまっている。時折連絡は来るし、言葉かけは優しい。この母には「子を遺棄している」自覚は全くない。

どこにも居場所のないチェン・ニェンにとって唯一の希望は、全国統一大学入試(=高考)を好成績で突破して北京大学へ行くことだ。現在、どれほど過酷な状況にあろうとも、勉強だけはしなければならない。どんな仕打ちをされても学校へは行くのだ。

 

出会ってしまった孤独な魂

ある日、シャオベイ(イー・ヤンチェンシー)が街の不良たちからリンチされているところに通りかかったチェン・ニェンは、その光景から目をそらすことが出来なかった。そこに自分を見たのかもしれないし、そうでないかもしれないが、とにかく立ちすくんでしまう。
不良どもはチェン・ニェンに、彼らがいかにも言いそうなことを言う。

「こいつが好きなのか。それならキスしてみろよ」

 

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この事件をきっかけに、二人は徐々に近づいて行く。シャオベイはチェン・ニェンが登下校時に暴力を受けないよう、距離を取りつつ(ここが痺れるところだ)見守り、チェン・ニェンはシャオベイの家に立ち寄るようになる。

シャオベイの家は、道路か橋のようなところの下に、嵌め込むような形で作られた隠れ家のような家だ。家族はいないし、それについてはほとんど語られない。木の上ではないけれども、寓話的なビジュアルがツリーハウスを想起させる。実際チェン・ニェンにとってはある種の避難場所だったから、ツリーハウスのような役割を果たしていたと言っていいのかもしれない。

二人が手を繋いで歩くことはない。でもある日バイクに二人乗りをした時、二人の顔には自然と柔らかな笑みが溢れる。幸せとはこのように儚く刹那的なものであることもあるのだ。

 

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胸に刺さるキス

チェン・ニェンにとってシャオベイが(そして逆も)唯一の居場所となり始めたとき、衝撃的な事件が起こる。その事件の渦中で、二人は二度目のキスをする。

作中の二度のキスは両方とも切ない。どちらも作られた状況の中でのキスだ。一度目はシャオベイを救うため、二度目はチェン・ニェンを救うためのものだった。
二度目のキスは、個人的にはこれまで映画を見てきた中で一番といっていいくらい切ない。表面的には、愛とは真逆の状況を作品世界の中で作り上げるために行われる。しかし観客の私たちは、その奥底で二人が確実に愛を通わせたことを感じてしまうのだ。

いじめや過酷な大学受験、ストリートチルドレンといった社会問題を扱った本作は、それら自体が作品のテーマともなりうるものだ。しかし本作はなによりもまず、切ないラブストーリーだと思う。
チョウ・ドンユイとイー・ヤンチェンシーは、それぞれチェン・ニェンとシャオベイの孤独と切ない思いを強く美しく演じきっている。

終わりの方で、冒頭につながる「現在」を描いているが、この部分はなくても良かったかもしれない。なければ二度目のキスシーンの痛切さが増す。しかし、そうなると観客は処理しきれない感情を抱えて家に帰らなければならなくなるだろう。だからあって良かったのかもしれない。ここは好みが別れるところだと思う。

 

ところで、本編終了後の、現在の中国におけるいじめ撲滅への取り組み等のインフォメーション的な部分は、作品には全く必要ないことは明白だ。しかし政治的な事情で付けざるを得なかったのかもしれない。ここは目を瞑るしかないだろう。