『Caravan to the Future』 サハラ〜サヘルをラクダで渡る人々
砂漠の民 トゥアレグ族の「塩キャラバン」
西アフリカのサハラ砂漠一帯をルーツとする遊牧民、トゥアレグ族の「塩のキャラバン」の話と知って、マリのタウデニからトゥンブクトゥへ運ばれる板塩みたいなものを想像していました。このサイトで紹介されているようなやつです。
しかし、この作品で登場するのは円錐形の塩で、しかも家畜用。家畜に食べさせる質のよい塩なのだそうです。一か月に一度だったか15日に一度だったか忘れてしまいましたが、塩を食べさせるとのこと。その塩の交易にまつわるドキュメンタリー映画でした。
ドキュメンタリー映画に細かい情報は必要か
長いの、あるいは続編/外伝、待ってます
文明と伝統の拮抗
さて、ちょっと脱線してしまいましたが、最後に、最も心を動かされたことについて。
それは、この塩のキャラバンが行われる目的はただ「粟を買ってキャンプに運ぶこと」だということ。ナイジェリアのカノで粟を買うため、そこで売れる塩をビルマ・オアシスに調達しに行く…その行程に四ヶ月という時間をかける…
私、昨日自宅のお米がきれて、ついLOHACOでポチってしまいましたが、つまりこれを四ヶ月かけてやるんですね。そしてそれ自体が仕事になっている。粟がすぐ手に入る場所に引っ越そうとはしない。
こういう生活もあるんですよね…
デヴィッド・ボウイ展『DAVID BOWIE IS...』
結構混んでます
ファッション・アイコンとしてのボウイ
ライブ映像
私がこのスペースに入った時はもうすでに始まっていました。曲が終わったのでもう一度始まるのを少し待っていたのですが、すぐには始まらなかったので、もう疲れていたこともあり、あきらめて帰りました。
グッズショップ
ドキュメンタリー映画『DAVID BOWIE IS...』
あと、『地球に落ちてきた男』も現在公開されています。
こちらは明日までの公開のところが多いので、ご注意を。
(観たいけど行けない…)
『淵に立つ』ー 何がいけなかったのか
あけましておめでとうございます。
2017年がみなさまにとって(私にとっても)良い年になりますように。
昨日は深田晃司監督の『淵に立つ』を見て来ました。今年最初の一本です。
観たいと思いつつも、相当怖いかもしれないなあと思っていて観に行きそびれていました。
(以下、内容にかなり触れていますのでご注意ください)
淵の先にあるもの
すでに関係の冷えてしまっている夫婦(鈴岡利雄・章江)とその娘(蛍)、三人家族の元へ一人の男(八坂)がやってくる。その男が浅野忠信さんだし妙に穏やかだし、で、怖い展開になること必至です。
章江の心の隙間に八坂という風が吹き込んで、鈴岡家を絶望の淵へと追いやる…
八坂が蛍に何をしたのかあるいは何もしなかったのか、それは最後までわからないのだけれども、そこから八年の時が流れ、重度の障害の残った蛍と、その介助/介護にあたる章江、興信所に八坂の居所を探させ続ける利雄のもとへ、今度は年若い青年(孝司)がやってくる…
八年後にやってきた青年・孝司が、八坂の子であったというところは、ちょっと都合よ過ぎないか? とは思いました。ホラーやミステリーでよくあるような設定です。しかし、この設定がなかったら次の展開へ繋げることは難しくなるでしょう。また、より複雑に絡み合った状況をつくりだすのにも必要な仕掛けだったかも知れません。
でも、と、また思います。
八坂の子じゃなくてもなんとかなったんじゃないかなあ… ただし持って行くのに時間はかかると思うけど。二人きりの部屋で孝司が蛍に近づいたシーンを見たら、充分可能な気がしました。八坂の子じゃない設定で最後まで持って行かれたら、もっと怖いものになったんじゃないかしら…(簡単に言うなよ、でしょうけれども)。
怖そうで観るのを躊躇していたと冒頭に書きましたが、想像していたほどではなかったと思うのは、この設定の影響もあるでしょう。
章江が蛍を道連れに、淵ならぬ橋から飛び降りたあとの水中シーンで、蛍が水上に向かって泳ぐ場面があるのですが、これが私にはよく分かりませんでした。この場面の意図するところはなんだったのでしょうか。こうであって欲しいという利雄の願い? 水面下での利雄の幻覚?
ともあれ、利雄は章江を川原にあげます。そしてそこには蛍と孝司が横たわっています。章江はどうやら助かった。利雄は絶えず叫びながら心臓マッサージをします。まずは孝司に。それから蛍に。暗転。叫ぶ声。荒い呼吸。マッサージの音。声。
因果応報?
上映のあと、深田監督と章江を演じた筒井真理子さんのトークショーがありました。
筒井さんは、八年の経過を表すために三週間で13kg増量するという、いわゆるデニーロアプローチをされたそうです。もともとは八年後のシーンの時に「八年後」というテロップを入れていたそうですが、入れなくても時間が経過したことはわかる、ということで削除したとのこと。介助のシーンで腰回りの肌が見える場面があって、その肉付きが印象的でしたが、なるほどと思いました。その演出は成功していたように思います。
質疑応答のとき、四人が川原に上がったラストシーンで、利雄はなぜ蛍でなく先に孝司に心臓マッサージをしたのか、という質問が出ました。順番を決めないままリハーサルをしたところ、利雄を演じた古館さんがそうして、それをそのまま採用したそうです。
これについては、なぜそうなったかというより、やはり蛍で暗転、というのが、終わり方として成功している気がしました。
監督によると、ラストシーンに希望を感じたという人と絶望を感じたという人と、両方いるそうです。私はどうだろう… よくわからないのですが、すくなくとも、 観終わった時に「うわ、これは救われないな…」とは思いませんでした。なぜだろう。今すぐにはわかりません。おそらく利雄の行動のためかと思います。
また、利雄が「蛍のことは自分たちの罪に対する罰じゃないかと思う」というようなことを言う場面に関して、因果応報についての質問も出ました。監督ご自身は 因果応報を信じていないけれども、「人というのはそこに因果応報を見てしまうものだ」と思っているので、因果応報自体を描いたつもりはないが、因果応報を見てしまう人たちに向けて作ったという面もある(うろ覚えです…)というようなことをおっしゃっていました。
確かに、これは因果応報の話ではないと思います。複雑に見えるけれど案外シンプルな話なんじゃないでしょうか。
愛のない夫婦は淵に立っているのと同じで、少しでも風が吹けばそれで終わり。
(そして、夫婦が愛し合い続けるって、簡単なことじゃありませんね)
余談ですけれど、「なぜ絵を描くの?」という問いに対する孝司の答えは、そのまま深田監督の「映画を撮る理由」だったようです。見るために撮っている。これはあらゆる芸術に言えることでしょう。
青年団国際演劇交流プロジェクト2016『愛のおわり』
観たいと思いつつも予定が立たず予約していなかった『愛のおわり』、本日最終公演ということで駆けつけ、当日滑り込みで観ることができました。
フランスの劇作家パスカル・ランベール氏の作品で、ランベール氏と平田オリザ氏の共同演出での上演です。
翻訳は平野暁人氏、日本語監修は平田オリザ氏。
予備知識なしで観て来ました。
(以下、内容に触れる部分がありますのでご注意ください)
モノローグの閉塞感
たぶん、開始から1分も経っていなかったと思います。
うわーきついなこれ、堪えられるかな…と。たぶん苦手なタイプの演劇だ、どうしよう、と思いました。
まず、閉所がやや苦手なんですが、当日キャンセル待ちで入場したため、少々厳しい席になってしまい、すでに閉塞感があったせいもあると思います。
舞台の上には女がひとり、男がひとり。男が「始めよう」と言って「愛のおわり」を始める。二人が終わっているということに関してバーっとまくし立てていくわけですが、女は一向に言葉を返さない。これがキツイ。
男の台詞の内容じゃないんです。それはどうでもいい(私にとっては)。女が言葉を返さない、そのことがものすごくキツくて、1分もしないうちに苦しくなって、いやもう、いつまでこの調子なのかな堪えられるかな、帰りたくても簡単に出られない席だぞ、と… 女性の表情が見えない席だったので、キツさもひとしおです。
だいたい「愛のおわり」って時にこんなに喋るかな、特に日本の男にはこういう人、まずいないよね、まあフランス人ならいそうだけど、あーほんと、いつまで続くのこれ、もうそろそろ女が言葉を返してもいいんじゃないの…
などと思いつつ観ているうちにやっと慣れてきて、ひょっとしたらこの演劇はモノローグに終始するのかもしれないなあ、と思ったのですが、それでも違う展開を期待してはいました。
「もしもこれを観ている観客がいるとしたら言ってやれ、『帰るなら今だぞ』と。長いぞー」というようなセリフ(正確には覚えていません)を男が言ったときには、ホントに帰りたいと思いました、ええ。でも簡単には出られない席です。
いや、でも実はこのセリフでだいぶ場が緩んだこともあって(客席には笑いが起こりました)、諦めて最後まで観る気になりました。
…ひどい言いようですよね。
でも、この反応は作者/演出者の思うつぼだったんじゃないでしょうか。たぶん私はすごくいい観客だったと思います。
モノローグ × モノローグ
時間的にどれくらい経ったのか確認していませんが、中盤にコーラス隊が出て来て、その間に男女の位置が入れ替わり、コーラス隊の退場とともに第2ラウンドが始まりました。はい、今度は女のモノローグです。
つまりこの作品は、「モノローグ×モノローグの対話」だったんですね。
女のモノローグパートは、構造がわかったせいか、男のモノローグへの応酬という性格だからか、あるいは私自身が女だからか、前半のようなキツさはなく、普通の饒舌な演劇(クラシックな)みたいな感じでした。ちょっと身体が痛くなりましたけど。パイプイスに2時間以上でしたから…
男のほうのありえそうもないセリフ(途中あんまり聞いてませんでしたけれども)と違って、女のほうは、女が思いそうなことを言ってはいました。しかしね、やっぱり疑問でしたね。
これが「愛のおわ」った男女の対話だろうか、と。
基本的に、愛が終わった男女は対話しません。もう対話できないから終わってるんです。相手に対して言うことなんかありません。相手の話もききたくないし、きいても痛くも痒くもないんです。
女は「あの時のあなた」や「あの時の会話」を「取っておく」ことなんてしません(男はそうして欲しいんでしょうけど)。そう思ううちはまだ終わってないんです。
仮にこれは「愛のおわ」る過程を見せているものだとしても、やっぱり納得はいかないなあ… まだまだ終わらないですよ、これ。だから私、「やっぱり終わらない」っていうオチが来るかと一瞬思ったくらいです。
Clôture de l'amour / Fin de l'amour
当日知ったのですが、本作品のオリジナルタイトルは『Clôture de l'amour』だそうです。「愛の幕切れ」といったところでしょうか。『Fin de l'amour』(愛の終わり)ではないんですね。このあたりに何かあるのかなあ、と思いますが… あと「終わり」でなく「おわり」にしていることも。
つまり、これは観念劇みたいなものであって、ここにリアリティを求めてもあまり意味がないのでしょう。
男女の間に起こることは世界共通かもしれない。でも「愛」の中身や「愛」の持つ意味は、文化のコンテクストによってだいぶ違ってくるし、だからその終わり方も当然違うだろうと思います。
(いや、わからない。終わり方はそう変わらない気もする…)
演劇を観たとき、いや、演劇に限らず何かを観たとき、「いい」とか「よくない」とかをどの部分で評価するかということにいつも悩みます。
扱っている題材がいい、扱い方がいい、あるいは逆に扱い方がよくないことがいい、などなど… 考えているうちにぐちゃぐちゃになってきます(どの分野についても評論ってあまり読んだことがないので、読んだらなにかわかってくるかしらねえ…)
もろもろ飛び越えて、いいとしか言えないものっていうのももちろんありますが、そういうのはそうそうないですよね。
とにかく、一時間しゃべり続ける(セリフを言い続ける)俳優の体力はすごいし、一時間聞き続ける俳優の体力もすごい。そしてそれを2時間20分見続ける、私たち観客だって結構すごいんじゃないかしら。
ジャック・ロジエ『オルエットの方へ』 ー 私たちのヴァカンス
あいかわらずなんてことのない時間
本作も当然ヴァカンスを描いています。女の子三人が海辺の別荘で過ごす二十日間(+α)のお話です。
実は今回も初回同様遅れてしまい、最初の部分を見のがしてしまいました。なので、三人でヴァカンスを過ごすことになった経緯を知りませんし、もしかしたら重要なことを見のがしてしまっているかも…
この波の音は印象的でした。ここまで大きく波の音を入れている映画ってあまりない気がします。よりリアルな感じ、ドキュメンタリーの風合い。
この笑い転げふざけ回る女の子たちに(私が)ついて行けなくなって来た頃、一人の男が登場します。ジョエルに気がある同僚ジルベールが、「通りかかった」と見え透いたことを言って三人の元へやって来ます。ここから話が(多少)動き出し、幾分調子が変ります。
このジルベール役の俳優は、『メーヌ・オセアン』で検札係を演じた(というか後に演じることになる)人ですね。本作では三人の女の子にウザがられながらも、なんとなく受け入れられ、でも散々からかわれて、最終的に途中で立ち去ってしまいますが、そのいかにもウザがられるタイプの男としてなんともいえずリアルな感じを醸し出していました。
そのほか、ジルベールが去る前に、「ヨット持ちのいい男」が出て来て女の子三人のバランスを微妙に崩したりするわけですが、ストーリーと言えばそれだけです。
一体、この映画の何がおもしろいのか?
そう思う人は思います。そしてこの映画をおもしろいと思う私も、同じ疑問を持ちます。前者は「おもしろくない」の反語的表現ですが、私は疑問文そのまま、「何をおもしろいと思うのだろう」と思います。
いまだによく分からないのですが、「それはストーリーではない」ということだけは言えそうです。
彼のヴァカンス、私たちのヴァカンス
彼女たちのヴァカンスをぼーっと眺めていた私たちを、ハッとさせる場面があります。
女の子たちにバカにされていると感じ、そのことにうんざりしたジルベールは、そのことを女の子たちに言い、去って行きます。そして彼が去ったあと、女の子の一人が(誰だったか忘れてしまいました)こう言います。
「私たち、彼のヴァカンスを台無しにしちゃったわね」
このセリフを機に、延々と続く他愛ないどうでもいいような話を見てきた私たちは、彼のこれまでの時間を思います。そしてさらに、自然と、なぜか、過ぎ去った私たち自身のヴァカンスを思うのです。多少の感傷とともに。
これは実に見事というほかなく、これまでの時間はこのためにあったか、と思いました。
とはいえ、ジャック・ロジエの意図する本当のところはわかりません。
たぶん、幾通りにも解釈は可能でしょう。本作品(というかすくなくとも今回続けて観た三作)は、そういう「開かれた」映画であることは間違いありません。
ジャック・ロジエ『アデュー・フィリピーヌ』 ー 強制終了するヴァカンス
ジャック・ロジエ特集上映の二本目、『アデュー・フィリピーヌ』を観て来ました。
私が観た順番では二本目ですが、この作品が長編第一作だそうです。
その前に観た『メーヌ・オセアン』についてはこちらに書きました。
(以下、内容に触れる部分があります)
それぞれのヴァカンス
本作品が撮影されたのは1960年。冒頭に「アルジェリア戦争の6年目」とさりげなく出てきます。これが最初に出てくる意味は大きいですね。
(本作品を観るときは遅れなかったのですが、先に観た『メーヌ・オセアン』と、後に観た『オルエットのほうへ』には遅刻しちゃいました。大事なこと見逃したかもなあ…)
これは一人の男の子ミシェルと二人の女の子リリアーヌとジュリエットのヴァカンスの物語ですが、男の子と女の子、それぞれにとってその意味が違っています。
なぜなら男の子ミシェルにとってヴァカンスの終わりは兵役につくことを意味するから。早い段階でそのことが知らされます。
前半がヴァカンス前、後半がヴァカンス中となっていますが、私、例によってまた少し寝ちゃいまして… ヴァカンスへ行く前の部分で。その間、ミシェルとテレビ局の同僚がリリアーヌたちに紹介してもらった仕事をする…というところ。あとでヴァカンスでコルシカ島へ行ってから、その時の賃金が未払いだという話が出て来たので、ああそうだったの、と思った次第です。
ま、それはいいとして(よくないかな)、とにかく三人でコルシカ島でヴァカンスを過ごすわけですね。
それがなんか三人だけでそこにいるのではなく、わーっと人がいるんですが、あのノリ、Club Medじゃないですか? 一般的な日本人が持つフランス人のイメージからは考えにくい、でもフランス発の、団体旅行というかキャンプというかコロニーというか… あら、そんなところに行くのね、と思いましたが、それが後に効いてきます。
ある日三人はその喧噪から離れて山に入ります。そこで三人の男女の三角関係がさらに深まるわけです。女の子たちは躍起になっていますが、ミシェルは成り行きまかせ。「女の子二人を手玉に取って浮かれる」でもなく、一体何を考えているのかわからない。
それはそうでしょう。だって彼は戦争に行くんですから。
何月何日と、はっきりとはわからない。でも極く近い将来(最初に話題にのぼった時点でたしか”2か月半後”と言っていました)およびがかかることになっている。Club Medの馬鹿騒ぎも、女の子たちの恋の鞘当も、ミシェルにとってはどうでもいいことでしょう。
一方、リリアーヌとジュリエットはミシェルのことで頭がいっぱい。この構図は、戦争がなくても実際によくある光景ですね。
終盤で、"Je t'aime, moi!(あなたが好きなのよ!)"と言うリリアーヌに向かってミシェルが言います。
「好き、好きって! それよりも大事なことがあるだろ!」
これは、 ずっとノンシャランとやってきた(ように見える)ミシェルの「初めての言葉」といっていいと思います。そしてそれに続く静寂。これには唸りました。
青春の輝きとコルシカ島の光
一つのサヤに二つ入っているアーモンド(とかその他何でも双子の実)を分け合って食べたとき、翌朝、先に "Bonjour Philippine!" と言ったほうが勝ち、という子どもの遊びがあるそうで、タイトルの『アデュー・フィリピーヌ』はそこから来ていています。リリアーヌとジュリエットもこれをやって二人で大笑いする場面があります。
他愛ない遊びでケタケタ笑って、もうそれだけでなんかキラキラしているわけですが、実際に光がキラキラして素敵な場面がありました。今回の特集上映のポスターにもなっているこの場面もそのひとつ。
これ以外にも、そのまま写真にしたいようなシーンが多く、特に山へ入ってからは、フレーミングがいいなあと思う場面がたくさんありました。
(ちょっとズレますが、本作でも『メーヌ・オセアン』でも見られた、“二人の人物が対面していて、観客に背を向けている人物の顔を鏡に映して見せる”場面も印象的でした。『メーヌ・オセアン』では終盤の列車での場面、本作ではCMのラッシュみたいなのを見る前の場面です)
最後に、ついに招集がかかって島を去るミシェルを乗せた船に向かって、ジュリエットとリリアーヌは大きく手を振ります。走って高台へ登って。この辺りの音楽の使い方が絶妙です。
ミシェルのヴァカンスはここで終わり。ジュリエットとリリアーヌのヴァカンスもやがて終わる。恋の行方も青春の行方もわかりません。
ジャック・ロジエは、誰の内面も代弁しません(って合計三本を各一回ずつ観ただけなのに言い切っちゃっていいんでしょうか。しかも遅れるし途中寝るし)。主な登場人物と等距離を保ち、あくまでも外側からまなざしを向けます。だからどこかドキュメンタリータッチで、映画の中で起こっていることが、いきあたりばったりに見える。そのあたりは『オルエットの方へ』や『メーヌ・オセアン』にも引き継がれています。実際ドキュメンタリーを撮っていた監督なので、うなづけることではありますね。
今回の特別上映ではドキュメンタリーは上映されないので、残念です。観たい…
こういう素敵な反戦映画もあるんだな。
青☆組『パール食堂のマリア』
先日、劇団 青☆組の『パール食堂のマリア』を観て来ました。
2011年の作品ですが、今回、劇団化5周年記念企画の第一弾として再演されました。
(以下、内容に触れている部分があります)
1970年代の空気
舞台は1970年代の横浜、街の食堂。
まず、セットがよい感じで、期待が高まりました。青☆組にも0場があるのでうれしい。すっと気持ちが舞台世界へ入って行きます。
1970年代といえば私の子ども時代です。
実を言うと私、10歳より前のことは、本当に限られたことしか覚えていないというくらい、おそろしく記憶力がありません。だからたいして覚えていることがないです。
でもこの作品を観て、そう確かにあの頃はなんだかワケありの大人が結構いたなあ、と思い起こしました。子どもでしたから詳しい事情はわかりません。でもワケありの大人、ワケありの家庭… そういう空気をやはり感じ取ってはいたのです。子どもが大人になんでもかんでも訊いていいわけじゃないような、あの空気。それが舞台の上に漂っていました。
この作品は横浜がモデルということですが、ここで語られていることはあの当時きっとどこにもあった話だろうと思います。けれども港町である横浜は、やはり他の街とは違っていたのかもしれません。
当時の横浜を知る人はこの作品をどのように観たでしょうか。
ハーフの子どもたち
本作にはハーフが二人登場します(死産だったというもう一人を含めれば三人)。パール食堂のコック、光治と、仕事を求めてこの街にやって来たミッキー。まだハーフの人々が明確に蔑視されていた時代です。
ん、でも待てよ? 70年代後半にはハーフのモデルが雑誌で活躍していたような気が… それに歌手なんかも。
70年代はそういう過渡期でもあったのかもしれません。それに、実は今でもハーフの存在は、あるところではもてはやされ、あるところでは蔑視される、という複雑な側面を持っています。
ハーフという呼び名も、半分じゃないからダブルだ、いやミックスだ、といろいろある中、どうもしっくりくるものがありません(この区別自体が日本独自のものなのかもしれません)。ナニナニ系日本人、と言えばいいのか…うーん。私は普段、ミックスということが多いです。
それはともかく、アメリカの黒人と日本人のハーフ(とここでは言っておきます)という設定のミッキー役の土屋杏文さんは身体にリアリティがありました。肌の色を濃く塗ったり、かつらを被ったりということをしない演出もよかったです。
ハーフに関連してひとつだけ引っかかったのが、「赤ん坊が真っ黒だった」というところ(正確なセリフは忘れてしまいましたが)。
なぜなら、生まれたての黒人の赤ちゃんは「真っ黒」ということはないからです。ハーフでなくてもです。一般的な日本人よりは幾分濃い色の肌だったとしても。
このシーンは、パール食堂の店主の妻の身に起きたことを観客にはっきりと知らせる場面でしたから、「真っ黒い赤ちゃん」が記号的に使われたことは理解できます。言葉としても強く、一連の出来事の鮮明なイメージを喚起する力が確かにありました。
それはそうなんですが、私はその記号で少し目が覚めてしまいました。けれども、じゃあどういえばいいんだ、というところはわかりません。本当に難しいです。
ともあれ、作・演出の吉田小夏さんは、その死産した子どものことを描くことで、戦後に起きた痛ましい出来事を想起させることに成功しています。また、コックの光治とミッキーを描くことによって、ある時期の日本においてハーフの子どもたちが直面した問題に、私たち観客の心を向けさせます。
この問題は、上でも少し書いたように、多少かたちは違っても、今でも存在します。本作から少し脱線してしまいますが、日本における”ハーフ”については、こちらのドキュメンタリーをお勧めします。
映画『ハーフ』予告編 Hafu: the mixed-race experience in Japan [Official Trailer]
吉田小夏さんのリリシズム
吉田小夏さん作・演出の作品は今回を含めて三作観ています。他に観ているのは『星の結び目』と『海の五線譜』ですが、その二作も本作も、違和感なく観客に時間を行き来させる、リリシズム溢れる作品でした。あの時間の取り扱い方は見事だと思います。
時間を行き来するだけにファンタジックでもあり、ノスタルジックでもある。三作しか観ていないのに言えることではないかもしれませんが、「時間の往来」とそれに伴うノスタルジーは吉田小夏さんの作品の要ではないでしょうか。(もしかしたらそれが演劇の要なのでしょうか。これまで数えるほどしか演劇を観ていないので判断できません)
時間を行き来するというのは超現実的なようでいて、実は私たちも普段からよくやっていることです。回想という形で。しかしそれが幕もないままさりげなく舞台上で展開されているのを観るのは実に不思議なもので、改めて時間について考えさせられます。(と言っても、それは観賞後のことです。観ている間はその時間の流れに乗っています)
正直に言うと、吉田小夏さんの作品は、私にはロマンチック過ぎるかなと思ったりもします。一見して、心のきれいな素直な人が作った作品だとわかります。私にはなんだかきれい過ぎるのです。
ところが、時が経つと「なんかよかったなあ」ということだけがじんわりと感じられる… 不思議ですね。
もう一度観ても、きっと同じでしょう。やっぱり「きれい過ぎる」と思うでしょう。そして時が経ってから「なんかよかったなあ」と思うのです。たぶん。
それが、吉田小夏さんの作品群と私との関係、ということになるのでしょう。