『ホイットニー 〜オールウェイズ・ラヴ・ユー〜』 - 優等生の孤独
監督:ケビン・マクドナルド
出演:ホイットニー・ヒューストン、シシー・ヒューストン、他
製作年:2017年
製作国:イギリス
1980年代〜90年代を代表する女性シンガーで、グラミー賞に8度輝き、全世界で2億枚以上のアルバムを売り上げた、ホイットニー・ヒューストンの素顔に迫るドキュメンタリー。
2012年2月に若くして不慮の死を遂げた人気歌手の人生、ということから、映画の内容はだいたい察しがついてしまうわけだが、やはり観てしまう。
そしてやはり、想像とあまり変わらない内容ではあった。
そもそも個人的には、ホイットニー・ヒューストンの歌が胸に刺さるような経験をしたことがない。素晴らしい歌唱力で、多くの人に好まれるのはよくわかる。けれども私には、何か優等生的な歌で、心にしみてくるものがない。(ファンの方、ごめんなさい)
ところが、開始してまもなく流れてきた歌はめずらしく響いてきた。へえ、ホイットニーにこんな曲があるんだ、と思っていると、それはホイットニーの母、シシーの歌う歌だった。
彼女の母が歌手であったことを、それまで知らず、声が似ていたので本人が歌っていると勘違いしたのだ。
シシーは、アレサ・フランクリンのバックコーラスなどをやっていた歌手だった。そのため、ホイットニーとその兄弟たちが小さい頃はツアーなどで留守がちで、親戚の家に預けられることが多かったという。
シシーはのちにソロ活動を始めるが、上手くはいかなかった。ちょうどその頃、教会で歌っていたホイットニーの才能が開花し始める。
母は娘の教育に全力を注ぎ、厳しく歌を教え込んだ。
この話を知って、なぜホイットニーの歌が優等生的なのかわかった気がした。
母の期待を一身に背負った娘は、良い子になるしかない。
作中の証言の中に「ホイットニーは本当に母親の関心を欲していた、愛というより関心を」というのがあったが、彼女は生涯、母の関心が欲しかったのだと思う。そして母は、娘のその想いに、本当の意味で気づくことがなかったのではないだろうか。
ホームビデオの映像で、「ニッピー(ホイットニーの愛称)、ニッピー」と自分に呼びかけ、「今日はニッピーがなかなか出てこない」という場面がある。
大スターのホイットニーは小さなニッピーをいつも心に抱えていた。母は娘をニッピーと呼びながら、そのニッピーが何を求めていたのかわかっていなかったように思う。
薬物依存症になる人は、ほとんどが家族関係の問題を抱えている。ホイットニーも依存症になるが、最初に治療センターへの入院を勧められた時、それを断ったのは誰あろう父親だった。父はその頃、ホイットニーのビジネスに深く関わっており(というか牛耳っていた?)、ホイットニーの健康よりもビジネスを優先させたのだ。
このあたりの経緯は、エイミー・ワインハウスのケースとよく似ている。
実の父親が、娘の健康よりもお金を優先させるとは一体どういうことなのだろうか。
母は娘の才能が、父は娘の稼ぎ出すお金が大事だった。
ただのニッピーでは両親の関心を引くことができなかったのだ。
ニッピー、お前が何者でもなくても、私たちはお前をずっと愛しているよ、と言ってもらえていたなら。
できることなら、生きているうちにニッピーの歌を聴かせて欲しかったと思う。
「ホイットニーは絶対に寝室で寝なかった。いつもリビングのソファで寝ていた」という証言もあった。これは子どもの頃の話ではなく、自分の家庭を持ってからの話だ。
彼女の寂しさがこの話に集約されている気がしてならない。
と、ここまで映画としての本作についてほとんど書いていないが、映画としてこの作品がどうだったかというと微妙かもしれない。ホームビデオで撮ったプライベートの映像などがたくさん使われているが、はっとするような素の表情を見せてくれるわけではなかった。とはいえ、上に書いたニッピーの部分はホイットニーを理解するのを助けてくれた。
一曲、ワンコーラスでもいいから完全なライブの場面があった方が良かったと思う。個人的には彼女の曲(あまり知らない)の中で好きな “I Have Nothing” をフルで歌う場面が欲しかった。
『メアリーの総て』 - 私の選択
監督:ハイファ・アル=マンスール
出演:エル・ファニング、ダグラス・ブース、他
製作年:2017年
19世紀イギリスのゴシック小説『フランケンシュタイン』を書いたメアリー・シェリーが、『フランケンシュタイン』を書くまでの物語。
まず、このポスターのビジュアルが素晴らしくて惹きつけられた。 しかし、この墓場で夢想するかのようなメアリーの様子に、ほわっとしたラブリーな少女のお話を期待すると、よい意味で裏切られる。
メアリーは、母親の命と引き換えに生まれた子だった。長じて父の営む書店を手伝う合間に小説を書き、仲の良い義妹にせがまれて自作を読んで聞かせるが、折り合いの悪い継母から仕事をサボっていると咎められる…というような日々を送っていた。
ある日、“異端の天才詩人”パーシー・シェリーと出逢う。パーシーには妻子がいたが、二人は互いに惹かれ合い、ついに駆け落ちする事となる。
パーシーは身勝手で弱い男だ(まあ、パーシーに限らず、妻子を残して出奔するような男は皆そうだが)。けれども、鬱屈した日々を送る年頃の女の子にとっては抗えない魅力があることは容易に想像できる。何しろ詩人である。日常や家業に縛り付けられるような生活とは無縁の軽やかな魂が目の前に現れたら、ついて行きたくなるのも無理はない。その軽やかさがただの軽さになり、生活の重さと釣り合いが取れなくなることなど、想像だにしないし、たとえ想像できたとしても、恋(と自由へ)の衝動は、そんなネガティブな想像を簡単にかき消してしまう。
ところでここで驚くのは、メアリーが義妹を連れて家を出ることだ。ここにメアリーの面倒見の良さが現れている。連れて出ることを約束していたということもあるが、退屈な生活の中で自分の書く小説だけを楽しみにしている妹を、この陰気な家に置いて行ったらどうなることだろう、という思いもあったに違いない。
「連れてって。約束でしょ」と言う妹の手を、一瞬の躊躇の後、掴んで走り出すメアリーの表情はそれを物語っているように見えた。
駆け落ち当初三人は、パーシーの親からの援助で贅沢な暮らしをしていた。そんな中メアリーは出産する。やがて援助を絶たれ困窮し、逃亡生活のうちに生後間もないわが子を失う。
話が進むに連れ、パーシーは情けない男っぷりをどんどん露呈していくが、それに反比例するようにメアリーは強くなっていく。
苦しい生活の中、二人は争うことが多くなっていくが、ある時メアリーはパーシーに言う。
私の選択で私が出来ている、少しも後悔はない、と。
表情に可愛らしさと力強さを併せ持つエル・ファニングはまさにメアリー役に最適だ。パーシー役のダグラス・ブースの、チャラさやダメっぷりも悪くない。個人的には、話の筋には関係ない(いや、メアリーが『フランケンシュタイン』を生むきっかけとなったのだからおおいにあるのか)、トム・スターリッジ演じるバイロン卿のキャラクターが出色である。あんなイカれた感じだったのね。
全体的に暗めのトーンの映像は時代背景や物語とよく調和している。衣装や美術も素敵だが、街並みや墓場もいい(ホラーは苦手だが墓場は好き)。
本作は、夢見る18歳の女の子が運命に翻弄される話ではなく、自分で選択して行動し、自分の人生を形作って行く物語であり、そのことの意味を良く知る監督によって作られた作品だ。
この作品に元気付けられる人はたくさんいるだろう。
『シシリアン・ゴースト・ストーリー』 ー 巻き込まれる子どもたち
『シシリアン・ゴースト・ストーリー』
脚本・監督:ファビオ・グラッサドニア、アントニオ・ピアッツァ
出演:ユリア・イェドリコヴスカ、ガエターノ・フェルナンデス、他
製作年:2017年
製作国:イタリア、フランス、スイス合作
シネスコ 123分
何の予備知識もなかったので、観る前はロマンティック・ファンタジーかと思っていたが、これがとんでもなかった。水を主要なモチーフとして展開される映像はファンタジックで美しいが、それとは対照的に話の内容は凄まじい。
マフィアに誘拐されて殺され、酸で溶かされた(!)少年の実話から作られたということは後で知った。最後にその少年に捧ぐ、とクレジットが出てわかった。
この「捧ぐ」がなかったら、本当にキツく救われない話で、嫌な気分を引きずってしまったと思う。
こういう事件は新聞で報道されるとしてもおそらく数行で済んでしまう。マフィアの発祥地シチリアでの事件であればなおさらだろう。そして少し時が経てば忘れ去られてしまう。
けれどもこうして映画作品となることによって、被害者の少年が、友だちと遊び恋もし、日々を楽しむはずだったこと、ひとりの生きた男の子であったことを、人々は改めて思い起こす。映画が、誘拐されて殺された少年、という匿名の(たとえ名前が明かされているにしても)存在に息吹きを吹き込んだ。
映画にはこういうこともできるのだ。
ガエターノ・フェルナンデスが演じるジュゼッペの優しく無垢な表情が、事件の悲惨さを際立たせる。ユリア・イェドリコヴスカは、ルナの、芯の通った性格と真っ直ぐな恋情を自然体で演じていて好感が持てる。二人が会う幻想のシーンでは画面のコントラストが強めになっていて、ゴーストのゴースト感が強調されている。
森の中、水の中、丘からの俯瞰など、自然の風景は美しいが、同時に、何か「ここからは逃れられない」というような息詰まる閉鎖性のようなものを感じた。そのように意図して撮影されているかもしれないが、この島がもともと持っているものかもしれない。
全く救いがないかというとそうでもなく、ラストのルナと友人たちが戯れる海岸のシーンには明るさの兆しが見え、すこしほっとした。
『金子文子と朴烈』 ー 丸腰の命
監督:イ・ジュンイク
出演:イ・ジェフン、チェ・ヒソ、他
製作年:2017年
製作国:韓国
DCP 129分
大逆事件や在日韓国人という、日本においては取り扱いが難しい題材が、真摯かつ軽やかな作品に仕上げられている。
この作品の元になった朴烈事件は実際に起こったことであり、金子文子も朴烈も実在の人物ということだが(事件も人物も私は知らなかった)、それは必ずしもこの作品全体が史実通りであることを意味しないし、そのことが作品の良し悪しの決め手ともならないだろう。
ただ、時の流れに忘れ去られた事件や人物を再発見させてくれたことには大きな意味があると思う。
冒頭、 いきなり嫌な気分になる場面。
汚い身なりの車夫にパリッとした格好の客が車代を投げてよこす。
車夫はそれを地面に這いつくばって拾って数え、「二銭足りないです」と言う。
すると客は怒り出し侮蔑的な言葉を並べ立てるが、それでも諦めずに食い下がる車夫を激しく踏みつけにする。この車夫が朴烈だ。
場面変わって、「犬ころ」という朴烈の詩を読み上げ、その作者は誰かと店の仲間に問う居酒屋の女。それが金子文子。
文子はこの詩によって朴烈に惚れ込み同居を申し入れる。
ここから二人とその仲間たちとの物語が始まる。
ネットで検索してみたら、本作の予告編が二種類あることを知った。
とても興味深いのでぜひ両方をご覧になっていただきたい。
Osaka Asian Film Festival 2018の予告編
OAFF2018『朴烈(パクヨル) 植民地からのアナキスト』予告編 | Anarchist from The Colony - Trailer
一般公開時の予告編
本作の原題は『朴烈』である。
しかし予告編に見られるように、大阪アジアンフィルムフェスティバルでは『朴烈(パクヨル)植民地からのアナキスト』という(原題と英題とを合わせた形の)邦題で上映された。予告編はこのタイトルにぴったりと合い、ドライブ感のある、朴烈の反逆者的な側面を強調したものになっている。これはこれで興味をそそられる。
一方、一般公開時には、タイトルは『金子文子と朴烈』となり、予告編も同様に二人の物語としての側面が多く取り上げられている。また、「朴烈と」ではなく「金子文子と」と文子の名前を前に出していることにも意味がある。文子は「男の物語」の添え物になるような女ではなかったのだ。そのことを十分に意識してつけられたタイトルだろう。実際、二人の出会いの場面を始め、刑務所の中、裁判の様子など、全編を通してそういう文子の性格がよく描かれている。
作品を観た後では、後者の方がこの作品をよく表していると思った。
チェ・ヒソが演じる金子文子は、ひと頃の浅野温子のように見えることがあって、観ていて少しくすぐったくなるような場面もあったりするのだが、気丈で明るく十分に魅力的である。
原題は『朴烈』であるし、映画祭の予告からしても、そもそも朴烈の話として撮った映画なのだろうが、文子のキャラクターが作品のカラーを決めているようにも思えた。
イ・ジェフンは、寡黙な朴烈を情感豊かに演じていて惹きつけられる。朴烈の目に涙が浮かんだ時、こちらも思わず泣いていたほどだ。
何度か泣いてしまったけれども、作品全体はユーモラスな雰囲気で、純愛の感動ドラマというより冒険物のようなところがある。そう、道行きではなくむしろ冒険譚だ。
この二人を結んでいた絆は愛なのか思想なのかその両方なのかわからない。
孤独な魂は同じように孤独な魂を容易に見つけ得るし、惹かれ合うから。
いずれにせよこれは、自分が生きた証を何かに刻みつけようともがく孤独な魂の物語だ。
ところで、もしもこれがテレビドラマであれば、エンディングテーマはこれだと思う。
『獣ゆく細道』
本記事の副題はこの楽曲の歌詞から拝借した。
フレデリック・ワイズマン『アスペン』ー かつて栄えた銀鉱山の街
今年のシネマヴェーラの特集上映で観た6本目は、最後になりますが、『アスペン』です。
原題:Aspen
公開年:1991年
142分、カラー、16mm
ワイズマンの作品は学校や病院、軍事施設など特殊な場所を扱ったものが多いですが、この『アスペン』のように少し広範囲な場所、地域を扱ったものもあります。
今回の特集上映で最初に見た『パブリック・ハウジング』もそうですし、ニューヨークのセントラルパークを撮った『セントラルパーク』もおもしろかった。
この『アスペン』は、私にとっては、前記二作と比べてあまり面白さを感じる作品ではありませんでした。でもそれは私の趣味というか興味の向かう先がそこになかったというだけのことだと思います。
19世紀に銀鉱山として有名だったアスペンはスキーのリゾート地となる。
それでも鉱山としての機能はまだはたしているのか、鉱夫の姿もある。それとは対照的な豪邸でのディナー会の様子や、庶民的な家族の親戚一同が集まった結婚記念日のパーティー、読書会で意見を交わし合う人々、ギャラリーでの展覧会…
これらを見る限り、若い人々の姿は少なく、活気があるようなないような、微妙な街だなあという印象です。リゾート地である以外は、典型的な田舎町、なのかもしれません。
貧富の対立、新旧の対立、自然と人工の対立、といったことよりも、「私の居場所はここにはない」と思わせる何かを感じました。
表面ではやさしく迎え入れてくれたとしても、決して踏み越えられない柵のようなものが、そこここにあるというか…
私がここで暮らす若者だったら、この街を出たいと思ったんじゃないかな(街の人には失礼ですが)。とりたててどこが嫌だというのではないんです。ただぼんやりとした閉塞感がある。
おそらく日本にもこういった場所があるような気がします。
どうもぼんやりした感想しかでてきません…
また観る機会があれば、もう少しわかるかな?
フレデリック・ワイズマン『パリ・オペラ座のすべて』
今年のシネマヴェーラ特集上映で観た5本目は、『パリ・オペラ座のすべて』です。
公開年:2009年
158min、カラー、35mm
『Ballet アメリカン・バレエ・シアターの世界』を観たので、こちらもぜひ観たいと思いました。あの作品一本ではわからなかったことが、こちらと比較することで何か見えてくるかもしれないと思ったからです。
まず劇場がすごい。
(怪人のいるところですからね)
『アメリカン〜』のほうでは稽古場とツアー公演が主な撮影場所で、母体劇場の内部を見ることはできませんでした。稽古場はおそらく劇場とは別のところにあるのだと思います。
オペラ座のほうは全てを備えた劇場で撮影されているので、衣装製作や照明なども含めた舞台制作全体を見ることができました。
稽古場ひとつとってもデコラティブで、アメリカン・バレエ・シアターとはだいぶ違います。
稽古風景においても運営活動においても、一番目立った相違点は、オペラ座では多くの言葉が飛び交っていたこと。そこはやはりフランスだなあ、と。
フランスらしく、引退後の年金の話なんかも出て来ます。
振付家に動きの修正を指導されても、ダンサーはただはいと言って直すのではなく、「難しいな…」にしろなんにしろ、必ず一言を返す。ただし、振り付けに関する反論というのはニューヨーク同様ここでもありません。
指導者が二人いればその二人がああだこうだと言葉を交わす。
あるいは(他にもこれこれをやっているし、年齢的にも)自分にはこの役は無理だ、と劇場のマダムに掛け合うダンサーもいる。
パリに比べたらニューヨークはおとなしいなあ、と思いました。
全く知らなくて恥ずかしいですが、オペラ座のバレエ団はコンテンポラリーダンスの公演もするのですね。クラシックしかやらないのかと思っていましたが、コンテンポラリーな作品も出て来ました。(最後のクレジットにピナ・バウシュの名前もあったり)
『パリ・オペラ座のすべて』のほうが『アメリカン〜』よりも若干短いのですが、いろいろ詰まっている気がしました。『オペラ座〜』のほうが中に出てくる演目が多かったかもしれません。
以前に「オペラ座は保守的で(個性的な)自分を受け入れてもらえなかった。だからロイヤル・バレエ団に入った」と、フランス人の有名なダンサーが言っていたのを読んだことがあります(ダンサーの名前は忘れてしまいました)。
本作を見ている限りなんとなく革新的なことも通りそうな雰囲気なのですが、やっぱりそうでもないのだろうな、という気はします。というのも、2009年の時点でも黒人ダンサーは一人もいない、少なくとも本作には登場しないから。
『アメリカン〜』は1995年公開ですが、黒人ダンサーの姿がありました。たった一人、男性ですけれども。
現在のオペラ座がどうなのかは知りませんが、この壁は厚いだろうと想像します。
最後はロミオとジュリエットの舞台でした(これはバレエを知らなくても何となくわかります)。
ジュリエットが、下にいるロミオのところへ行く、喜び、不安、逡巡… の後、ロミオを部屋に招き入れる…
最後にロミオが窓から外(客席から見たら向こう側)へ飛び降りた瞬間、映画も終わります。
私たち観客も一緒に、窓から飛び降りた状態です。
さて、私たちはどこへ着地するのでしょうか。
フレデリック・ワイズマン『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』
今年のシネマヴェーラでの特集上映で観た4本目は、『BALLET アメリカン・バレエ・シアターの世界』です。
原題:BALLET
公開年:1993年
170min、カラー、DVD
アメリカン・バレエ・シアターの活動を記録した作品で、レッスン風景、バレエ団の運営に関する活動、公演の様子が写し出されています。
しかし単に「記録映画」とは言えないだろうと思うのは、本作品においても他の作品同様、場所や日付、人物の名前や演目名などは一切呈示されないからです。
ダンスは大好きなのですが、バレエには全くなじみがないので、バレエの作品を見てもあまりピンときません。有名な演目だったり、有名なダンサーや指導者がいたかもしれませんが、それにも気づきません。
そんな私なので、バレエ自体の素晴らしさとかについてはよくわからないので、鍛え上げられた肉体とそれをコントロールする力、作品に対する真摯な態度などを観ることができた、と、何も言っていないような感想しか言えずなんとも情けない…
しかし、バレエ団といえばつい山岸凉子さんの『アラベスク』をイメージしてしまいますが、本作品を観て、実在のバレエ団とは実に淡々としたものだなあと思いましたね。一流だからこそ淡々としているのかもしれません。
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場所はニューヨークだし、トップのダンサーたちが集まっているので、もっとなんというかピリピリしたものがあるかと想像していました。が、そこはやはりバレエ、一般のショービジネスの世界とは違うのでしょう。
ここでは指導者/振付家は作品制作に関して絶対であるということはわかりました。
振り付けに関して、「ここはこうして」という指導者/振付家の言葉は絶対であり、それに対して身体で応えていくのがダンサー。ダンサーのほうから「いや、これはこうしたほうがいいと思う」というようなことはない、ということ。
本作品では、団員の個別的な実像、みたいなものはあまり見えて来ません。単に私の見る力がないだけかもしれませんが、少なくとも私には見えて来ませんでした。それはたぶん、彼らが話す場面が少なかったからかもしれないと思います。
バレエ好きの人が観たら多くの発見がある作品なのかもしれません。彼らの動きを観るだけで、わかることがたくさんあるのかも。
やはり身体表現というのは難しいものだと思います。
表現するのに日々の鍛錬が必要であるように、それを受け取る側にも鍛錬が必要ですね。