WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

青☆組『パール食堂のマリア』

先日、劇団 青☆組の『パール食堂のマリア』を観て来ました。

2011年の作品ですが、今回、劇団化5周年記念企画の第一弾として再演されました。

(以下、内容に触れている部分があります)

 

theater.aogumi.org

 

1970年代の空気

 

舞台は1970年代の横浜、街の食堂。

まず、セットがよい感じで、期待が高まりました。青☆組にも0場があるのでうれしい。すっと気持ちが舞台世界へ入って行きます。

 

1970年代といえば私の子ども時代です。

実を言うと私、10歳より前のことは、本当に限られたことしか覚えていないというくらい、おそろしく記憶力がありません。だからたいして覚えていることがないです。

でもこの作品を観て、そう確かにあの頃はなんだかワケありの大人が結構いたなあ、と思い起こしました。子どもでしたから詳しい事情はわかりません。でもワケありの大人、ワケありの家庭… そういう空気をやはり感じ取ってはいたのです。子どもが大人になんでもかんでも訊いていいわけじゃないような、あの空気。それが舞台の上に漂っていました。

この作品は横浜がモデルということですが、ここで語られていることはあの当時きっとどこにもあった話だろうと思います。けれども港町である横浜は、やはり他の街とは違っていたのかもしれません。

当時の横浜を知る人はこの作品をどのように観たでしょうか。

 

ハーフの子どもたち

 

本作にはハーフが二人登場します(死産だったというもう一人を含めれば三人)。パール食堂のコック、光治と、仕事を求めてこの街にやって来たミッキー。まだハーフの人々が明確に蔑視されていた時代です。

ん、でも待てよ? 70年代後半にはハーフのモデルが雑誌で活躍していたような気が… それに歌手なんかも。

70年代はそういう過渡期でもあったのかもしれません。それに、実は今でもハーフの存在は、あるところではもてはやされ、あるところでは蔑視される、という複雑な側面を持っています。

ハーフという呼び名も、半分じゃないからダブルだ、いやミックスだ、といろいろある中、どうもしっくりくるものがありません(この区別自体が日本独自のものなのかもしれません)。ナニナニ系日本人、と言えばいいのか…うーん。私は普段、ミックスということが多いです。

それはともかく、アメリカの黒人と日本人のハーフ(とここでは言っておきます)という設定のミッキー役の土屋杏文さんは身体にリアリティがありました。肌の色を濃く塗ったり、かつらを被ったりということをしない演出もよかったです。

ハーフに関連してひとつだけ引っかかったのが、「赤ん坊が真っ黒だった」というところ(正確なセリフは忘れてしまいましたが)。

なぜなら、生まれたての黒人の赤ちゃんは「真っ黒」ということはないからです。ハーフでなくてもです。一般的な日本人よりは幾分濃い色の肌だったとしても。

このシーンは、パール食堂の店主の妻の身に起きたことを観客にはっきりと知らせる場面でしたから、「真っ黒い赤ちゃん」が記号的に使われたことは理解できます。言葉としても強く、一連の出来事の鮮明なイメージを喚起する力が確かにありました。

それはそうなんですが、私はその記号で少し目が覚めてしまいました。けれども、じゃあどういえばいいんだ、というところはわかりません。本当に難しいです。

 

ともあれ、作・演出の吉田小夏さんは、その死産した子どものことを描くことで、戦後に起きた痛ましい出来事を想起させることに成功しています。また、コックの光治とミッキーを描くことによって、ある時期の日本においてハーフの子どもたちが直面した問題に、私たち観客の心を向けさせます。

この問題は、上でも少し書いたように、多少かたちは違っても、今でも存在します。本作から少し脱線してしまいますが、日本における”ハーフ”については、こちらのドキュメンタリーをお勧めします。

 


映画『ハーフ』予告編 Hafu: the mixed-race experience in Japan [Official Trailer]

 

吉田小夏さんのリリシズム

 

吉田小夏さん作・演出の作品は今回を含めて三作観ています。他に観ているのは『星の結び目』と『海の五線譜』ですが、その二作も本作も、違和感なく観客に時間を行き来させる、リリシズム溢れる作品でした。あの時間の取り扱い方は見事だと思います。

時間を行き来するだけにファンタジックでもあり、ノスタルジックでもある。三作しか観ていないのに言えることではないかもしれませんが、「時間の往来」とそれに伴うノスタルジーは吉田小夏さんの作品の要ではないでしょうか。(もしかしたらそれが演劇の要なのでしょうか。これまで数えるほどしか演劇を観ていないので判断できません)

時間を行き来するというのは超現実的なようでいて、実は私たちも普段からよくやっていることです。回想という形で。しかしそれが幕もないままさりげなく舞台上で展開されているのを観るのは実に不思議なもので、改めて時間について考えさせられます。(と言っても、それは観賞後のことです。観ている間はその時間の流れに乗っています)

 

正直に言うと、吉田小夏さんの作品は、私にはロマンチック過ぎるかなと思ったりもします。一見して、心のきれいな素直な人が作った作品だとわかります。私にはなんだかきれい過ぎるのです。

ところが、時が経つと「なんかよかったなあ」ということだけがじんわりと感じられる… 不思議ですね。

もう一度観ても、きっと同じでしょう。やっぱり「きれい過ぎる」と思うでしょう。そして時が経ってから「なんかよかったなあ」と思うのです。たぶん。

それが、吉田小夏さんの作品群と私との関係、ということになるのでしょう。