WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『ミューズ・アカデミー』ー やっぱりただの浮気?

ホセ・ルイス・ゲリン監督の『ミューズ・アカデミー』を観て来ました。

たぶん映画好きの方々の間では有名な監督らしいのですが、私は初見です。フライヤーやサイトの写真に惹かれて、観たくなりました。

 

mermaidfilms.co.jp

(以下、若干内容に触れています)

 

言葉、言葉、言葉

 

今回、上映後に四方田犬彦さんのトークショーがありました(最近トーク付きにあたることが多いな…意図的ではないのですが)。

そこでわかったのですが、本作で使われていたのはカタルーニャ語だそうです。なんかちょっと違う気がしつつも、ずっとスペイン語だと思って聞いていました。イタリア語も使われていたのかな。「先生にはイタリア語で話します」と、生徒が言う場面がありました。なんかその辺りのラテン系の言葉を行き来していたようですね(今サイトを見てみたらそのようなことが書いてあります)。

 

前半はとにかく言葉、言葉、言葉。「教授の講義」ですから当たり前ですが。

で、やっぱりちょっと寝てしまいました…

美学、文学、詩、殊にダンテなどに興味がある人には、教授の講義部分も楽しめたのかもしれませんが、私はとにかく字幕を追うのが面倒で、もう大半を単に音として聞いてました。

そして、なんかそれでよかったんじゃないかと、全部観て思いました。

 

前半部で語られていることの細部はわからなくていいです。

ミューズだなんだと御託並べてるけど、若い子と浮気してるだけじゃん、大層な言い訳おもしろいよね、っていうことなんじゃないかと。これはコメディなのかもしれませんが、笑うほど面白くはなかったなあ… クスッくらいはしましたが。

(いや、もっと高尚ななにかがあるのかも…少なくともこのあたりの素養がある人はもっと別の楽しみ方もできるかと)

 

写真的なアプローチ

 

写真に惹かれて観に行ったと書きましたが、やはりその写真になっている場面はよかった。教授の妻と教授の浮気相手の生徒とが対峙する場面の、ガラス越しのアップです。

そのほか、教授と妻の自宅の場面、教授と浮気相手との車の中の場面などもガラスが効果的に使われていて、視覚的に好みでした。

こういうアプローチが映画技法としてすでに確立されているものなのかどうか知りませんが(勉強しなくちゃね)、すごく写真的なものを感じます。『シルビアのいる街の写真』は写真で構成されていて、かつ『シルビアのいる街』より前に撮られているということで、写真にもひとかたならぬ関心がある監督なのでしょ う。

東京都写真美術館で上映された意味が分かる気がしました。

 

”不在”を描く

 

上でリンクを貼ったサイトにこうあります。

 

『ミューズ・アカデミー』はもちろんフィクション映画ですが、本物の感情を土台とし、 〝人生の諸断片〞を土台とする映画でもあります。
映画は、愛や誘惑、創造、嫉妬、力の対立、教育、そして、ごまかしといった、私たちの身近にある事柄にも及んでいくのです。
この映画で語られるミューズは、私たちのまわりのそこら中にいます。
ですが私は彼女たちの名前さえも知りません。
彼女たちは、自分がミューズだとは自覚していないからです。
ミューズ、それはつまり私たちの〝投影〞によって存在する女性であり、私たちが絶対に〝知りえない存在〞なのです。

 

四方田さんによると(私は観ていないので)、ゲリン監督は『シルビアのいる街で』という作品で、”不在”を描いたということです。この監督の言葉を読むと、この作品もそうなのかもしれませんね。

作品毎にスタイルを変えてくるそうなので、他の作品も観てみたいとは思いました。

たとえば、その"不在”を描いたという『シルビアのいる街で』とその前に作られた『シルビアのいる街の写真』。しかし実のところこれはテーマにあまり興味がもてません。後者は写真で構成されているというところに惹かれますが…

むしろ気になるのはその後に撮られた『ゲスト』や、それより前に撮られた『工事中』などのドキュメンタリー作品です。なんとか都合を付けてどれか一本は観たい…