WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『工事中』 - フィクションみたいなノンフィクション

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

この記事で観たいと書いていた、ホセ・ルイス・ゲリン監督のドキュメンタリーのひとつ、『工事中』を観ることができました。

 

 

工事中
En construcción
監督・脚本:ホセ・ルイス・ゲリン│撮影:アレックス・ゴルティエ│2001年│スペイン│133分│カラー│スタンダード│デジタル│言語:スペイン語

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちょっと長めのドキュメンタリー。133分。うれしい。

ついでに言うなら「解体現場」も大好物です。

 

公式ページはこちら。

 mermaidfilms.co.jp

 

 

(以下、内容に触れています)

 

ごめんなさい。寝ました。

 

好きなくせに寝てしまう… ホントにここのところ眠くて眠くて、隙あらば寝てしまうのでどうしたものかと。

今回ちょこちょこと断片的に寝てしまって、これはある部分続けて寝てしまうよりよくないパターンなんですよね。

寝ちゃったけど大丈夫、って言えない。できればもう一度観たいです…(もう一度寝るかもだけど)

 

フィクション/ノンフィクション

 

『ミューズ・アカデミー』はちょっとドキュメンタリーっぽいフィクション、みたいな捉え方をされているところがあるようですが、この『工事中』は逆にフィクションっぽいドキュメンタリーでした。

 

描かれているのはスラム街の建物の解体と新築工事、その周辺の人々です。

(個人的には”スラム”っていうほどのところではないと思いましたが)

 

現場で働く人々。移民。道で独り言を言っている老人。近所のカフェだかバーだかで語り合う老人。街娼とその働かない恋人。売りに出された新築物件を内見しにくる裕福そうな人々。

レンガ職人たちの話が、時にセリフであるかのような内容だったり、街娼のカップルなんか「ほんとかな」っていうくらいにフィクショナルな雰囲気だったり…

 

フィクションとノンフィクションを私たちは一体どこで見分けるのだろうか。

なんてことを考えたりもしました。

 

衝撃の(?)ラストシーン

 

いろいろとおもしろいところはありましたが、一番よかったのは、最後のシーンでした。

 

街娼のカップルは、男の子が働いていなくて、女の子が始終「働いてよ。働きなさいよ。そうすればあたしが街に立たなくてすむ」って言ってて、でも男の子はのらりくらりとしてる。そのくせ女の子が仕事に出る時にはちょっかいだして「行くな」と言う。でも働かない。そういうシーンが何度も出て来る。

 

最後のシーンでは、なぜかこのカップルの女の子のほうが男の子をおんぶして街を歩いて来る。上に貼り付けた写真のシーンです。「義足つければ歩けるんでしょ?」とか言いながら、時々休みながら。

ついに女の子が「ああもうだめ」と言って止まる。

男の子が「”疲れた”?背負ってやるよ」と言う。(注:ここ、字幕で引用符ついてたけど、おそらく別のシーンで女の子が仕事に行く前に”疲れた”って言った時のことと関連づけられている? それか、たぶんなんか深い意味がある、あるいはスラング的な言葉なのかな。ちょこちょこ寝ちゃってるんで記憶が曖昧ですが)

女の子が「やった!」と指ならして飛び跳ねて、男の子の背中に飛びつく。

女の子を背負った男の子が歩いて行く(というかこちらに向かって歩いて来る)…

 

それだけなんですけどね。

 

「義足」なんて言うから大けがでもしたんじゃないかと思ったけどそうじゃなかったのか、なんだったんだあれは?と思いつつ、よかった、歩けるのかと安堵して、おんぶでこちらに向かって歩いて来る二人の姿に、なんだろうなこれ、こういう幸せもあるのかな、これも幸せというのかな、なんて思ってしまう。でも二人の先々のことを考えたら切なくなる…

おそらく状況はなにも変ってなくて、女の子は街娼だし男の子は働いていない。住んでたところは壊された。

なのになんなんだこのラストは?っていう。

 

あまりによくできていてフィクションかと思うほどでした。

いろいろ見逃している気がするなあ…