WILD SIDE CLUB - 映画について -

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『セメントの記憶』ー セメントの味、建設と破壊

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監督・脚本:ジアード・クルスーム
撮影監督:タラール・クーリ
音楽:アンツガー・フレーリッヒ
製作年:2018年
製作国:ドイツ、レバノン、シリア、アラブ首長国連邦カタール
原題:TASTE OF CEMENT
DCP 88分



1975年から1990年にわたり内戦を経験したベイルートの、地中海を臨む高層建築の建設現場で働くシリア人の姿を追ったドキュメンタリー作品。

 

(以下、内容に触れています)

 

カメラは、(おそらくセメントの原料の産地である、山肌も露わな)山間部から市街地までの道のりを空から写し出しながら、舞台となる建設現場までやってくる。市街地にやってきて建設現場に入る前にまず目を惹くショットがある。廃墟となったビルと新しいビルを隣り合わせに、対照的においたショットだ。フライヤーにもある通り、これは建設と破壊に関する作品であり、このショットはその宣言となっている。

 

そしてこれもフライヤーにある通り、この作品はドキュメンタリーである。が、観ていくにつれ、ドキュメンタリーではあっても、かなりフィクショナルな描き方をしている作品であることに気づく。

ボイスオーバーで語られる「出稼ぎから時々シリアに帰ってくる父」と「その父がベイルートから持ち帰った海の絵」と「セメントの匂い」の思い出話は、事実なのかそうでないのかわからない。なぜなら、本作に登場する労働者たちは一切口を開かないからだ(もちろんそのように編集されているということである)。それ故にこの話を特定の誰かに紐づけることは難しい。つまりこれは、彼らのようなシリアからの出稼ぎ労働者たち全てを象徴する物語なのだろう。原題の『TASTE OF CEMENT』(セメントの味)は、そんな彼らの父たちが、出稼ぎ先の建設現場から持ち帰る身体に染み付いたセメントがもたらす味のことであると観客は理解する。しかし、この作品が建設と破壊に関する話であることを忘れてはならない。この味にはもう一つの側面があるのだ。

 

建設という行為は、一般的には明るい未来を感じさせるが、本作においては必ずしもそうではない。

労働者たちは、建設途中の建物の地下で寝起きしている。ところどころ水たまりのあるような、ただのコンクリート剥き出しの空間に、それぞれが寝起きする場所を作り、そこから毎朝上階の建設現場へと向かう。仕事が終わればまた地下へ帰って行く。毎日がその繰り返しだ。「シリア人労働者の午後7時以降の外出を禁じる」という注意書きの横断幕がある。これは法律なのかどうかはここでは確認できない。すぐ近くには美しい地中海が広がっているが、労働者たちは現場から労働の合間にそれを眺めるだけだ(この美しい海の底には戦争の負の遺産がごろごろと転がっていることを観客は後で知ることになる)。

 

建設現場の高層階でクレーンのアームが左右に動く。観客は運転台の位置にいる。そこからアームの背景の美しい海を見ていると、アームに戦車の砲身がオーバーラップしてくる。そして背景は破壊の限りを尽くされたどこかの市街地に変わる(そこがアレッポとわかる表現が作中にあったかどうか思い出せない)。砲身も左右に動き、時折発射する。あたりはもう破壊し尽くされているにもかかわらず。砲身は背景とともにもう一度アームに変わり、また砲身へと変わる。このシーンの視覚効果にはハッとさせられた。建設と破壊を対比させたストレートな表現だ。

ここでハッとさせられるのは視覚だけではない。建設と破壊の対比と相似は音響的にも表現されている。百聞は一見に如かずと言うが、見えるものよりも音によって感覚的に深いところで理解することもあるのだと気づいた。

 

これを機に、場面は淡々とした建設現場から一変して、瓦礫に埋もれた人々を救出する騒然とした現場へと観客を連れて行く。

セメントのもう一つの味とは、瓦礫の味だ。爆撃によって破壊された建物の瓦礫の中に埋まった時に味わった味である。

 

戦争は悲惨だ。それは頭で理解できるし、心で感じもする。しかし感覚ではどうだろうか。現代に生きる私たちは、戦争被害の写真や映像をその戦争が終わる前から(良くも悪くも)見ることができる。そして大抵の人は心を痛め、戦争の終わりを強く願う。けれども実際それがどれくらい怖ろしいことなのか、私自身について言えば、本当にはわかっていない。痛みは、身体的であれ心理的であれ、感覚的なものであるから、感覚にダイレクトに響かないと、それを我が事のように思うことは難しい。

本作は、映像と音響を用いて建設と破壊とを巧みに対比させることによって、グロテスクな映像を採用することなく、戦争のもたらす身体的/心理的痛みを観客の感覚に響かせることに成功している。

 

終盤、カメラはまたベイルートの道を走る。映像はぐるぐると回っている。コンクリートミキサー車のミキサー部分から見た映像だ。建設と破壊を繰り返す私たちは、このように常にぐるぐると回っているということなのかもしれない。

現場に戻ったカメラが、まだ外壁の出来ていない上階からの美しい海と夕日、左側の壁際の椅子に座る労働者の姿をとらえた、一枚の絵のようなラストショットが静かな余韻を生む。

一編の映画を観るとともに、聞きごたえのある音楽を一曲聴いたような印象を受ける作品である。