『アイリッシュマン 』ー 時がたつのはあっという間
2019年製作/209分/PG12/アメリカ
原題:The Irishman
配給:Netflix
監督:マーティン・スコセッシ
製作:マーティン・スコセッシ、ロバート・デ・ニーロほか
出演:ロバート・デ・ニーロ、アル・パチーノ、ジョー・ペシ、レイ・ロマノほか
冒頭、カメラが私たちを連れて行くのはマフィアのたまり場ではなく、死体の転がる現場でもない。病院か老人ホームのような施設の廊下をゆっくりと進み、行き着いた先の部屋で車いすに座っているのが、語り手の、ロバート・デ・ニーロ扮するフランク・シーランだ。
この冒頭シーンが示すように、マフィア物にしては出入りの少ない静かな作品だが、複雑な構造を持っているため、ぼーっとしてはいられない。3時間半という長さを感じさせない作品だった。
いや、この作品を簡単に「マフィア物」などと言ってはいけないのかもしれない。
この作品について、作品そのものを味わうことは思いのほか難しい。スコセッシでマフィアだし、デ・ニーロにジョー・ペシ、そしてアル・パチーノなのだ。
登場人物たちは実在した人々であり、原作はフランク・シーランの告白に基づくノンフィクションで、今も謎とされている全米運輸業者組合の当時の委員長ジミー・ホッファの失踪や、ケネディ大統領暗殺などについて描いていて、話自体も興味深い。
しかし、本作を観ながらつい、ロバート・デ・ニーロをロバート・デ・ニーロとして観てしまい、作品そのものからは離れた別の感慨にも浸ってしまったのは私だけだろうか。
デ・ニーロはもう若き日のドン・コルレオーネではないし、ヌードルスでもトラヴィスでもエースでもない。それは単に見た目だけの問題ではない。
本作では、回想シーンにおけるデ・ニーロ、ジョー・ペシ、パチーノの映像にVFXでディエイジングを施しているそうだ。それについては特に違和感もなく、確かに若返って見えるが、若さとはシワのない皮膚だけを意味するものではない。体型、ことに姿勢・骨格や、ちょっとした動きの端々にそれは現れる。例えば、銃を構えた、その体の形に。殴り倒した男の手を踏みつぶす、その動きに。
あと10年早く撮っていればかなり印象が違う作品になっていただろうと思う。
しかし、と、しかしを重ねてしまうが、今撮られたからこそ、別の、メタな視点からも観ることができる作品になっている気もする。たとえデ・ニーロがフランク・シーランではなくデ・ニーロに見えてしまっても、それはそれでいい、というような。むしろそれによって、作品が別の意味を帯び、深みを増すかのような。
作中で「時が経つのはあっという間だ」と、誰かが言っていた。ジョー・ペシ演じるラッセル・バッファリーノの言葉だっただろうか。これほど陳腐で、なおかつ真実である言葉はないように思うのは、私自身、だいぶ年を重ねてきたせいかもしれない。
時が経つのはあっという間、人のする事は全て虚しい。そしてその虚しさの積み重ねが人間を形作り、世界を作っているのだろう。
誰かの思惑で人の命が簡単に奪われる裏社会の虚しさは、終盤発せられるラッセル・バッファリーノの一言「やりすぎたかもしれん」で極まる。この言葉を聞いた時の、デ・ニーロ演じるフランク・シーランの表情の複雑さはさすがだ。今更やりすぎたと言われても失われた命はとり戻せない。
本作は、前述の謎に一つの答えを出しているが、それが真実か否かはわからない。それを明らかにすることは本作の意図するところではないだろう。いずれにせよ、最後に行き当たるのは虚しさだ。
何があったにせよ、どんなふうに生きたにせよ、もはや誰もこの世にはいない。同様に、私たちもいずれはこの世から消えていくのである。