WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『JUNK HEAD』ー 生きている人形たち

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監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽・

絵コンテ・造形・アニメーター・効果音・VFX・声優・etc:

堀貴秀

 

gaga.ne.jp

 

文楽が好きで劇場に観に行っていた時期がある。

同じ伝統芸能でも能や歌舞伎にはさほど惹かれず、また観たいと思うのは文楽だけだった。観る演目はほとんど世話物、ことに心中物ばかり。人形は、何と言っても死ぬ場面が素晴らしいのだ。
そもそも生きていない人形を死なせる技術、死なせることによって「確かに生きていた」と思わせる、感じさせる技術に心を奪われ、果ては「生きているとはどういうことなのだろう」「生きている者が持つ感情とその表出とはなんなのだろう」と考えさせられたものだった。この疑問にはまだはっきりとした答えが出ていない。

生きていないはずの人形に感情があるように見えるのはなぜなのか。

青年団主宰の平田オリザが、ロボット演劇『働く私』を作ったときに語っていた言葉を思い出す。
人間には内面というものがあって、それを言葉などで表出させようというのが近代演劇の考え方だが、そうではなくて、表出の方が先にあって、そこに私たちは心を感じるのではないかと思う、というような話だった。
ある角度やある速さである動きをする、あるいは動かない、ある間で言葉を発する、あるいは黙る。そこに「心」があってもなくても、見る者が「心」を感じ取ってしまう動きや間がある。そういう動きや間を作り出すことが演出ということになるだろう。

『JUNK HEAD』の人形たちは、その個性的な造形の愛らしさもさることながら、明らかに人形なのに生きているとしか思えないほど表現豊かに動き(実際には動かされているわけだし、そのことをわかってもいるのだが)、ともするとその素晴らしさに気づけないほど自然である。
また、ほとんどのキャラクターが、口ほどにものを言うはずの眼を持たないにもかかわらず、1秒24コマの的確なアングルやショットによって見事に感情を表している。
パンフレットを読んだところ、堀貴秀監督は過去にマリオネットの製作もしていたそうなので、マリオネットを使うこともやっていただろうと思う。人形の生かし方を知っている人なのだ。

ストーリーは、核によって生態系が崩壊し地上は汚染されたため地下が人類の生活圏となる、遺伝子操作で労働力となる生命体をクローニングする、クローンが反体制を組織する、未知のウィルスによる人類存続の危機… などなど、パンフレットを読むと細かい設定があるが、大筋はディストピアでの冒険譚である。中盤に少し違う展開があるともっと良かったのではないかと思うが、人形やセットの造形を見るだけでも充分と思わせる作品だ。何よりスチームパンクな世界観が自分の好みで、できることならバルブ村の真ん中に立ってみたいが、もうあの世界はどこにも存在しない。映画の中以外には。(パンフレットに見開きで写真が載っているがいくらでも眺めていられる。バルブ村のセットは製作に半年を要したとのこと)

本作のエンドロールは凄まじいことになっている。

4年かけて一人で作った30分の短編を長編にする際に数人のスタッフが加わったとのことだが、そもそもは監督一人で始めたため、クレジットの大部分が「堀貴秀」で埋まっている。文楽で言うなら、人形のかしらもかつらも衣装も小道具も舞台も一人で作り、かつ、照明も太夫も三味線も人形も一人でやるようなものだ。映画の場合、それをカメラに収めて編集するという作業も加わる。その創作意欲と実行力には感嘆するしかないし、堀監督には褒め言葉としてクレイジーという言葉を贈りたい。



#junkhead #ディストピア #ストップモーションアニメ #sf

『写真の女』ー とりあえず、踊ろう

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脚本・監督:串田壮史

出演:永井秀樹、大滝樹、猪股俊明、鯉沼トキ

 

公式サイト:https://womanofthephoto.com

 

(以下、内容に触れています)

 

常に白いスリーピースを身につけ、一言も発しない男、械は、写真館を営んでいる。古めかしい写真館の佇まいとは裏腹に、写真をスキャンしてパソコンに取り込み、依頼通りにサクサクと修正したりしている。そして17時になると店を締め、白いタオルを持って銭湯へ行く。一人暮らしの家にはカマキリがいる。子どもの頃からの昆虫趣味が今でも続いているのだ。

ある日、昆虫写真の撮影に訪れた林の中で、どこかから落ちてきて木に引っかかった女を発見し、行きがかり上、家に連れて帰る。女は胸元に大きな傷を負っていた。

女は今日子といい、バレエでステージに立っていた過去の栄光が忘れられず、日々SNSに写真を投稿し、不特定多数から賞賛を得ようと躍起になっていた。

怪我を負った後は、械に撮影してもらい、傷口を修正してもらった写真を投稿し始める。しかし、フォロワーや“いいね”は減る一方。ある日「ありのままの自分」として、傷の生々しさもそのままの、無修正の写真を投稿したところ、思いの外の賞賛を得る。歓喜する今日子だったが、今度は「では、傷が治ったらどうなるのだろう」という不安に駆られ、、、



何を隠そう私は傷フェチだ。正確にいうと傷“跡”フェチなので、生々しい傷はあまり得意ではない。なのでホラー映画もあまり得意ではないが、知らずにみた本作は紛れもなくホラー映画だった。と言っても、殺人鬼やゾンビが襲ってきたり幽霊に脅かされたりする類のものではない。

 

傷(瑕疵)とは修正されるべきもの、隠すべきものというSNS世界/ヴィジュアル世界の通念があり、多くの人が日々写真の修正に励んでいる。風景から邪魔なものを消すのを始め、顔や姿の加工、場合によっては写真だけにとどまらず、実物を外科手術で変えてしまうことすら今や珍しいことではない。

しかしSNSの世界には、逆に傷こそが個性でありむしろ誇示すべきもの、という反対概念も同時に存在する。個性こそが賞賛される現代においては、傷を晒すこともまた賞賛の対象となるのだ。

人々からの賞賛を求めSNSにアップする写真を、美しく修正された“理想的な私”から“ありのままの私”に変え、さらに“ありのままの私”をありのままたらんとするために、胸の傷を維持しようとする今日子の行為は、美しさを求めて実物を外科手術で変えてしまう行為と表裏一体をなすものだ。

 

胸の傷は心の傷の外在化であり、械がタブレットとペンでパソコン上の傷を修正するシャカシャカシャカという音とシンクロして、自らの傷を指でグリグリグリと擦って拡げる行為は、それ自体が音のない悲痛な叫びである。その叫びは、誰もが一度は経験したことがあるであろう、身体上の傷の生々しい痛みの感覚を、観ている私たちの内に呼び覚ます。その時私たちは今日子の痛みを内在化している。そしてそれこそがホラーなのだ。

 

画面構成、場面転換、音響(アフレコ)など、計算され組み立てられた作品で、ホラーでありながらコメディ要素もある。会話の間や械の表情、衣装、カマキリなど、コメディというかなんというか“いたずらっぽさ”のようなテイストだ。

そのせいか、鑑賞しながら大林宣彦監督の『HOUSE』を思い出した。本作は全編を通して音響が際立っているが(意図的にそう作られている)、とくに咀嚼音が出る場面で、南田洋子が食事中にニコッと笑って口を開くと目玉が見える、という『HOUSE』の一場面が思い浮かんだ。『HOUSE』は封切り時に映画館で観て以来、観ていないので、実際その場面でどんな音がしていたかは思い出せない。

 

写真を撮る/に撮られる(を撮らせる)という行為は、二人でダンスを踊る行為に似ている。最後には実際に今日子が踊りだす。それは、美しく賞賛される存在である(あった)自分、傷つき出口を見いだせない自分、どれが自分なのか、一体自分とは何なのか、本当の自分はどこにいるのか、そういうことはとりあえず傍に置いて(ついでにSNSも)、リアルに今ここで踊ったみたらどうか、という提示のように思える。

井上陽水の「夢の中へ」で歌われるように、まだまだ探す気ですか、それより僕と踊りませんか、探すのをやめた時、見つかる事もよくある話と。

『行きどまりの世界に生まれて』

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2018年・アメリ

原題:Minding the Gap

監督:ビン・リュー

製作:ダイアン・クォン、ビン・リュー

出演:キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リュー、ニナ・ボーグレン、ケント・アバナシー、モンユエ・ボーレン



スケーターについての映画は本作を含めて三作観ている。

最初に観たのが『スケート・キッチン』(2016・アメリカ)

http://skatekitchen.jp

これはニューヨークを舞台にした、女の子の話。

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次が『mid 90's ミッドナインティーズ』(2018・アメリカ)

http://www.transformer.co.jp/m/mid90s/

こちらはロサンゼルスを舞台にした、男の子の話。

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二作ともフィクションではあるけれども、思春期のスケーターたちのリアリティを自然に写し撮っていて、胸に何かを残す良い作品だった(これらについてもいずれ記事にするかも)。

 

本作『行き止まりの世界に生まれて』はドキュメンタリーであり、舞台は上記二作の間(真ん中よりは東寄りだけれども)のような、イリノイ州ロックフォード。「ラストベルト(錆びついた工業地帯)」と言われる地域だ。公式サイトでもその他宣伝媒体でも、この地域の閉塞性に言及し、そこから逃れようとする若者たちの話であるとしている。

実際本作で、昼間から人通りのない街、車の少ない大通りなどを見る限り、活気のない街であることが感じられる。しかし、ニューヨークとロサンゼルスを舞台にした他の二作と本作に登場するスケーターたちの間には、地域の閉塞性を超えた何か、どの地域にも通じるものがある気がしてならない。

スケーターたちの世界は、地域を問わず現実の社会(=大人)からみるとちょっとした異世界とも言えるのではないだろうか。車やバイクでなく、かと言って足でもない、“特別な乗り物”に乗る者たちだけが入ることのできる世界だ。そこに集う若者たちの胸には共通する思いがあるように思える。

彼らそれぞれの家庭でどんな問題があるのか、あるいは何もないのか、それはわからない。あってもなくても、彼らの心の中にはなんとなく隙間があり、家の中に落ち着くところがないという感覚があるのではないか。そしてそれは多くの思春期の若者に共通する感覚だと思う。それは一種の「寂しさ」と言ってもいい。

本作に登場するキアー、ザック、ビンはそれぞれの事情を抱え、そこから逃れるようにしてストリートへ出た。『スケート・キッチン』のカミーユ、『mid90s ミッドナインティーズ』のスティーヴィーも同様だ。(前者が女の子、後者がローティーン、ということで、本作とはまた違った側面が描かれるため、本作をごらんになった方には、ぜひこの二作もご覧頂きたいと思う)

思春期の若者にとっては、どんな家であってもそれ自体がすでに閉塞的であり、若者とは外へ出ていくものなのだ。

若者は外へ出る、そしてそこで仲間を見つける。さまざまな場所で。それはクラブかもしれないし、ライブハウスかもしれないし、図書館かもしれないし、ヴァーチャル空間かもしれない、しかし学校ではないような気がする、でもまあとにかく、いろんな場所やいろんな結びつきがあるだろう。

私はなぜか他の若者たちよりもスケーターたちに惹きつけられる。

私自身は「滑りもの」がおしなべて苦手で、スケートボードに乗ったことはない(正確には10代の頃、上に乗ってみたことはある。そして片足で地面を蹴って進むくらいはやったことがあるが、両足で乗ってシャーっと滑ったことはない。あったかもしれないが、間違いなくしりもちをついていたはず)。

そういう私にとって、彼らが疾走する姿は単純にかっこいいし、気持ち良さそうで羨ましい、だから惹きつけられる、ということはあるかもしれない。しかし多分それだけではない。

ストリート(競技場でなく)で、思春期という、心も身体も大きく変化する激動の時期の、暴力的なまでにやり場のない気持ちをスケートボードに乗せて疾走する彼らは、目の前に立ちはだかるシリアスで退屈な社会に必死で抵抗しているように見える。そちら側には行きたくない、という思い。子ども時代の終わりと大人の社会への入り口の狭間でもがき、不安や苦しみを身体的な課題(難しい技や、危険なあるいは禁止された場所で乗るなど)に置き換えて乗り越え、楽しさや喜びに変えようとするその姿に、文字通りの刹那さを見て胸がわさわさし、切なくなるのだ。

一緒には居るけれど、結局は一人一人、自分自身のボードに乗って自分だけで走る。課題は各自それぞれだけれど、周りには仲間がいる。そういう、仲間と自分との微妙な距離感がいかにも“家族”と似ていて、だから仲間のいる空間が、彼らが“帰って来たい場所”として機能しているのではないだろうか、とも思う。(そして、時期がくるとそこを離れて行く、という意味においても、家族と似ている)

三作に共通して、彼らの中に彼ら自身をビデオに収める人物が出てくる。スケートボードで疾走する様は殊更にビデオジェニックであるから、彼らをビデオに撮りたいと思うことは極めて自然であるが、撮影者が“彼ら自身”の一人であることが、貴重でありまた特殊である気がする。多くの場合、撮影者は単に撮影者であり、内部の者が持つ親密な視線を持つことが難しい。

その意味で、ビン・リュー監督は、インサイダーにしか引き出し得ない何かを本作に写し撮っているように思える。

 

(2021年8月追記:彼らの中にビデオを撮る人がいるのは、彼らにとって技をビデオに収めることが大変重要なことだからだと後で知った。もちろん、技云々とは関係なくビデオ作品としてビデオに収める人もいるとは思う。その結果、本作のような作品ができたりもするが、第一には技を記録するためだろうと思う)





『私の知らないわたしの素顔』-渇望の内実

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2019年製作/101分/R15+/フランス

原題:Celle que vous croyez

監督:サフィ・ネブー

製作:ミシェル・サン=ジャン

原作:カミーユ・ロランス

出演:ジュリエット・ビノシュニコール・ガルシア、フランソワ・シビル、ギョーム・グイ



本作はまるで、同じジュリエット・ビノシュ主演、監督はクレール・ドゥニの『レット・ザ・サンシャイン・イン』の裏返しのような作品だ。

 

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http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=119

 

どちらも、子どもを持ち離婚した(どちらかと言えば相手の都合で)中年女性が恋愛をあきらめきれない物語である。そしておそらくどちらも若い人が観てもあまりピンとこない作品ではないだろうか。なぜなら性を伴う恋愛の意味は青年期と中年期では大きく違うからだ。

 

そもそも恋愛とは、種の子孫繁栄のために遺伝子に仕掛けられた装置である(たぶん)。青年期のそれは、突き詰めれば子を生すことに向かって進められるゲームのようなものだ。(もちろんこれは物事を単純化した物言いであって、人間には“子を生さない”という選択肢もあるし、様々な理由で子を生せないこともある。その場合には恋愛は成り立たないというわけではない。人間とは想像以上に複雑なものだ)

 

本作の主人公クレールは離婚した後、付き合っていた若い恋人リュドから居留守を使われるなどすげなくされ、ちょっとした思い付きから、フェイスブック上に他人(若い女性)の写真と偽名を使ったアカウントをつくってしまう。そしてリュドの居留守を助けた友人アレックスをそこで発見し、近づいていく。そもそもはリュドの動向を知りたいことから発した行動だったが、次第にアレックスに夢中になっていく…

いつでも男性がいないとダメなタイプの女性はいるが、クレールもそういう女性というだけなのだろうか。あるいは、フランスが、カップルという単位を成すことができてこそ大人として参加資格が得られるかのような社会だから、“おひとりさま”に耐えられないということなのだろうか。

 

フェイスブックのアイコンに設定した写真の、若い女性は誰(あるいはどういう関係の人)なのだろうか、というのは、それが終盤で明かされる前に、察しが付く人には察しが付く。

 

 

(ここから先、思い切り内容に触れていますのでご注意ください)

 

 

アイコンの写真が姪というところまでは分からなかったが、元夫の浮気あるいは不倫相手であるだろうことはなんとなく察した。夫に裏切られ、遺棄されたという思いが、常に恋人を求める気持ちに繋がっていったのだろうと想像したからだ。クレールが恋人を求めるのは、たんに「男性がいないとダメ」なのではなく、またいわゆる「男遊び」をしたいわけでもない。誰かに必要とされること、誰かに大切にされることを、狂おしいほどに求めているということなのだ。だから相手はリュドでもアレックスでもどちらでもいい。しかしそれだけなら、性を伴わない関係であってもいいのではないか。自身の子どもたちではだめなのだろうか。

 

元夫を奪った姪、カティアは若く健康で美しい。これから元夫の子を産むかもしれない。その事実は、人生の半ばを過ぎたクレールにとって、大きな打撃となる。自らも子どもを産んだ経験があることがなおさらその打撃を大きなものにする。出産したのは遠い過去の話で、それは今の自分にはもはや不可能なことなのだ。性を伴う激しい渇望は、女性として終わっていくことへの恐怖の置き換えであり、渇望による行動は、その恐怖からの逃避である。女性として終わった先にあることは、人間として終わること、すなわち死だ。

先に本作を若い人が観てもあまりピンとこないだろうと書いたのは、このように自分の行くさきに死への階段が地続きで見えてくるような感覚は、若い人には想像しづらいと思うからだ。

 

世に浮気や不倫の話は山ほどあり、それらの状況や成り行きは、突き詰めれば似たり寄ったりだ。本作を「同居させてあげていた自分の姪と夫が不倫して離婚に至り、姪と夫は結ばれて、一人になった女が新しい男を求め、次第にメンタルをやられてしまう話」と言ってしまえばそれまでだが、やられたメンタルの内実を深く探ってみるなら、表層とは違ったものが見えてくるはずである。まあ、それもまた似たり寄ったりなのかもしれないが。




『マリッジ・ストーリー』-L.A. vs N.Y. /妻 vs 夫

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2019年制作/136分/G/アメリ

原題:Marriage Story

配給:Netflix

監督:ノア・バームバック

制作:デビッド・ハイマン、ノア・バームバック

出演者:スカーレット・ヨハンソンアダム・ドライバーローラ・ダーンアラン・アルダ

 

メリル・ストリープ演じるジョアンナとダスティン・ホフマン演じるテッドの離婚を描いた『クレイマー、クレイマー』は、何と40年以上も前の1979年制作の作品だが、本作『マリッジ・ストーリー』とほぼ同じ題材を扱っている。40年経って、アメリカにおける離婚/結婚をめぐる状況はどのように、あるいはどの程度変わったのだろうか。

 

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クレイマー、クレイマー』では、夫テッドは仕事人間のサラリーマンで、家庭に打ち捨てられた妻ジョアンナは、自分自身として生きるために、着の身着のまま、幼い息子を置いてまで家を出る。家庭のことはジョアンナに任せきりだったテッドは、当初は何もできないが、次第に息子と二人の生活に慣れていく。やがてジョアンナが息子の親権をとるためにテッドに連絡をしてくるが、話し合いは物別れとなり、裁判となる。

出て行ったジョアンナがどうしていたか、まったくと言っていいほど描かれないが、L.A.で職を得て自信を取り戻し、N.Y.に戻って親権を主張する気になったことがジョアンナの口から語られる。

 

アダム・ドライバー演じる本作の夫チャーリーは、N.Y.の前衛劇団を率いて仕事に打ち込んではいるが、料理など家庭のことは一通りできるし(しかも上手い)、息子の相手も教育もする。スカーレット・ヨハンソン演じる妻ニコールは、L.A.のテレビドラマからN.Y.の前衛劇団へと舞台を変えてはいるが仕事を続けている。

一見、ニコールの生活は、ジョアンナよりも条件がいいようにも見える。家事育児は夫と分担できるし、好きな仕事もしているのだから。

しかしL.A.で女優として人気を博したとしてもそれはテレビドラマで、しかもすでに忘れられた過去のことであり、N.Y.の前衛劇団では、自分のアイディアを夫は取り上げてくれない。舞台作品への賞賛は、ほぼ夫への賞賛だ。L.A.のように広くない家の中は几帳面な夫の好みになっている。現在の状況を直視するならば“自分自身を生きている”とはいいがたい。いかに先進的にみえる夫婦であっても、男女の力関係は40年前とほとんど変わらないのだ(これは全く驚くべきことであることを強調したい)。それでもまあ、片目をつぶって夫婦関係を維持してきた… 夫の不貞を知るまでは。

 

ニコールが離婚を決意する直接の原因となったのは、チャーリーと劇団員との不貞である。『冬時間のパリ』の記事にも書いたが、パートナーの不貞行為を許せるか否かにはいろいろな条件が絡んでくる。なかでも大きいのは、それまでの生活の中で自分が相手との関係においてなにがしかの犠牲を払ってきたと思うかどうかではないだろうか。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

犠牲だけでは関係はまだどうなるかわからない。不貞だけでもまだわからない。しかし犠牲と不貞のワンセットは、確実に離別へのスイッチを押す。そしてそのスイッチは、押したが最後もとには戻らない。ニコールのスイッチは入ってしまったのだ。

妻の日々の小さな自己犠牲に気づかぬ夫は、ある日突然、妻から離婚を言い渡されて狼狽する。本作のチャーリーも、クライマックスの激しい口論に至るまで、妻側の弁護士の言い分を妻の本心とは思えないでいる。それほど二人は“同じ結婚生活”を生きていないのだ。

 

クレイマー、クレイマー』ではひっそりと触れられていたL.A.は、本作では大きく主張する。ジョアンナが自信を取り戻した地は、ニコールのホームグラウンドかつ自分が主体的にできる仕事の場所であり、夫婦の最後の共同作業である離婚の戦いの場だ。

狭く、小さな家族、よく言えば文化的な悪く言えばインテリくさいN.Y.と、広々として多くの親戚に囲まれ、明るくおおらかなL.A.との対比を見ると、もはや国際結婚に近いカルチャーギャップがある。このギャップも、関係がうまくいっている時にはさほど問題にならないが、そうでなくなったときにはかなり大きな問題となる。身体は一つしかないから、一度に二か所で暮らすことはできない。ところがチャーリーは親権を得るためにこのジレンマに挑戦しなければならなくなる…

 

互いに弁護士を入れた離婚解決の方法は、『クレイマー、クレイマー』の頃にはどうだったのか、あまり描かれていないので調べないとわからないが、現在のアメリカにおいては理不尽で不毛な戦いであり、結局のところ得をするのは弁護士だけのように見える。ローラ・ダーンは、その“いかにも”な離婚専門の弁護士を“いかにも”に演じていて出色だ。

 

泥試合の様相を呈してきた二人の戦いの(そして映画の)クライマックスともいえる口論の場面は、長めのワンカットだったかと思うが、リアルというよりかなり演劇的な印象を受けた。だから嘘っぽいという意味ではない。夫婦の口論というものを考え抜き、言葉遣いや動きを計算しつくした場面であって、なんというか、ミュージカルを観ているような感覚になった。一度も言いよどまない、言い間違えない、二人の演技のその完璧さが、書かれた音楽を歌い奏でているかのようなのだ。

 

冒頭と終盤のシーンにおいて読み上げられるニコールの、チャーリーの良いところを書いたメモの中の言葉の中に、「出逢った瞬間、2秒で恋をした」というのがある。ここでチャーリーと、おそらくは観客もぐっとくる。チャーリーはその頃のことを思い出し、観客はそれを想像して。この設定はこの二人の始まりにこれ以上ないほどふさわしい。

興醒めするようなことをいうのは恐縮だが、一目惚れとは、現時点で自分に無いものを相手に見いだし、それを手に入れたいと思う心の状態だ。相手自身を見ているのではないし、結局その手に入れたいものは自分のものとはならないから、その後の展開によっては、離別は避けられない。それでもその一瞬のときめきが、永遠とは言えないまでも長く続くと思ってしまうのが良くも悪くも人間らしいところなのだろう。その意味において、本作は夫婦の愛情についてではなく、人間の愛すべき愚かさを描いた作品でもあるのだろうと思う。

 

全編を通して、二人の性格および行動の違いの対比や、夫婦の機微、あるいは一度は夫婦だった者同士の間に生まれる心境や心情などを表す細かな演出が施されており、全体として精巧な作品という印象を受けた。ことにラストシーンは観客の心に余韻を残して忘れがたい。

『冬時間のパリ』ー 二重生活・パリヴァージョン

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2018年製作/107分/G/フランス

原題:Doubles Vies

配給:トランスフォーマ

監督:オリヴィエ・アサイヤス

製作:シャルル・ジリベール

脚本:オリヴィエ・アサイヤス

出演:ギヨーム・カネ、ジュリエット・ビノシュ、ヴァンサン・マケーニュ、ノラ・ハムザウィ、クリスタ・テレ

 

 

まず、邦題の『冬時間のパリ』というのがよくわからない。映画の内容は、ことさらに冬を強調してもいなければ、パリであることもほぼ関係ない。“冬時間”は、同じアサイヤス監督の『夏時間の庭』からのアナロジーなのかもしれないし、確かに冬のパリが舞台でもある。外国映画の邦題ではよくあることだが、それにしても、とは思う。(ちなみに英語のタイトルはNon-Fictionだそうで、こちらはなんとなく意味ありげだ)

原題は『Doubles Vies』。二重生活、でいいだろうか。しかも複数だ。誰もが(かどうかはわからないけれども)持っている生活の二面性であったり、配偶者や決まった恋人がいながら、それ以外の人とも関係を持つ生活を示す(スパイなどの特殊な人を除けば)。

『二重生活』というと日本でも確か小説が原作の映画があったようだが、私は観ていない。まず思い浮かぶのはロウ・イエ監督の作品(2012年制作)、ニンフォマニアックな男を主人公とした、ひりひりするようなサスペンスメロドラマだ。

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https://www.uplink.co.jp/nijyuu/

 

翻って本作はというと、それとはまったく違ったタッチの軽やかなコメディである。オフィシャルサイトによれば「パリの出版業界を舞台に<本、人生、愛>をテーマに描く、迷える大人たちのラブストーリー」だそうだ。私の感想としては、別にパリの出版業界は舞台になっていないし、<本、人生、愛>も直接的なテーマになってはおらず、大人たちは別に迷っていないが、大きな意味ではラブストーリーではあるかもしれない、といったところだ。

ストーリーをざっくり言えば、パリで暮らす二組の夫婦(女優のセレナと編集者のアラン、政治家秘書のヴァレリー私小説家のレオナール)の日常を描いた作品で、タイトルの複数形が示すように、浮気や不倫をしているのはその中の一人ならず三人である。そのほかにも、老舗出版社のかなり年配のオーナーに若い恋人がいたり、政治家が別の顔を持っていることがわかったりもする。主な登場人物で、秘密がないのは政治家秘書のヴァレリーだけ… と思いきや、最後に秘密(といってもちょっと種類の違う)を明かす。やはり、どこから見てもシンプルな生活を送っているような人は、そうはいないのだ。

飽き飽きしながらもTVシリーズに出演し続けるセレナ、インターネットコンテンツに押されて伸び悩む出版社を電子書籍やオーディオブックなどで盛り返せるか模索中に失業の危機にさらされるアラン、同工異曲の私小説の出版を断られるレオナール、信じていた政治家に思わぬ形で裏切られるヴァレリー……いろいろあるけれども、彼らの誰も深刻な表情を見せない。このあたりはフランス人の実像にかなり近いように思える。私的な意見で恐縮だが、彼らの多くは“弱みを見せたら負け”という風に、よほどのことでなければ何事も無いように振舞う(一種の courtoisieなのだろうと思う)。いずれにしても本作の登場人物たちは、別にセレブではないが明日食うものに困るわけではない、そういう社会層の人々だ。

彼らの会話には政治や現代における表現についての議論が混ぜ込まれてはいるものの、特に高尚さや洒脱さはない。現代の先進国の各地でされているであろう、あくまでも普通の人たちの普通の会話だ。裏返しに言えば、世界の各地で同じような社会問題を抱えているということで、それこそが現代特有の問題なのではないだろうか。

 

(以下、若干内容に触れています)

 

 

最後に二組の夫婦が別れないのは、別に浮気や不倫が「文化である」からではない。

セレナとアランの間では結局不倫はあからさまになってはいないが、お互いに気づいてはいる。そもそも二人にとって不倫は遊びであり結婚生活を揺がすほどのものではないから、外での関係を清算すれば、知らんふりしてこれまで通り夫婦を続けていけばいい。愛し合っているかどうかはこの際問題ではない。

ヴァレリーがレオナールと別れないのは、最後に明かす秘密が原因と考えることもできるが、そうではないだろう。ヴァレリーはレオナールのために何も我慢してこなかった。あまり売れていない小説家を支えるために、好きでもない仕事を頑張ってしてきたのではなく、情熱を持って自分の好きな仕事をやってきたのだ。パートナーに裏切られて、それを許すか許さないかの基準はもちろん人それぞれだが、裏切りを知るまでの生活の中で、相手に対して我慢や献身をしてきたか否かという観点はかなり重要ではないだろうか。自分自身に嘘偽りなく生きているヴァレリーはレオナールに献身も依存もしていない。ただ愛している(本作で「愛している」という台詞はレオナールをまっすぐ見つめるヴァレリーからだけ発せられた)。だから別れないのだ。(出版を断られたレオナールに「慰めて欲しいの?」と問いかけ、「うん」と答えた彼に「いや」とすげなく言うヴァレリーにとって”愛”とは何を指すのだろうかというのはまた別の問題である)

それぞれの人生(vie)がかかっていないかのように見える二組の夫婦の生活(vie)を観て、どういう感想を持てばいいのかよくわからないが、軽やかな諷刺コメディーであることは間違いなく、ところどころ笑わせてもらった。(もちろん、同じ内容をシリアスに描くことだってできるのだし、そのほうが簡単かもしれないのである)

『アイリッシュマン 』ー 時がたつのはあっという間

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2019年製作/209分/PG12/アメリ

原題:The Irishman

配給:Netflix

監督:マーティン・スコセッシ

製作:マーティン・スコセッシロバート・デ・ニーロほか

出演:ロバート・デ・ニーロアル・パチーノジョー・ペシ、レイ・ロマノほか



冒頭、カメラが私たちを連れて行くのはマフィアのたまり場ではなく、死体の転がる現場でもない。病院か老人ホームのような施設の廊下をゆっくりと進み、行き着いた先の部屋で車いすに座っているのが、語り手の、ロバート・デ・ニーロ扮するフランク・シーランだ。

 

この冒頭シーンが示すように、マフィア物にしては出入りの少ない静かな作品だが、複雑な構造を持っているため、ぼーっとしてはいられない。3時間半という長さを感じさせない作品だった。

 

いや、この作品を簡単に「マフィア物」などと言ってはいけないのかもしれない。

 

この作品について、作品そのものを味わうことは思いのほか難しい。スコセッシでマフィアだし、デ・ニーロにジョー・ペシ、そしてアル・パチーノなのだ。

登場人物たちは実在した人々であり、原作はフランク・シーランの告白に基づくノンフィクションで、今も謎とされている全米運輸業者組合の当時の委員長ジミー・ホッファの失踪や、ケネディ大統領暗殺などについて描いていて、話自体も興味深い。

 

しかし、本作を観ながらつい、ロバート・デ・ニーロロバート・デ・ニーロとして観てしまい、作品そのものからは離れた別の感慨にも浸ってしまったのは私だけだろうか。

デ・ニーロはもう若き日のドン・コルレオーネではないし、ヌードルスでもトラヴィスでもエースでもない。それは単に見た目だけの問題ではない。

 

本作では、回想シーンにおけるデ・ニーロ、ジョー・ペシ、パチーノの映像にVFXでディエイジングを施しているそうだ。それについては特に違和感もなく、確かに若返って見えるが、若さとはシワのない皮膚だけを意味するものではない。体型、ことに姿勢・骨格や、ちょっとした動きの端々にそれは現れる。例えば、銃を構えた、その体の形に。殴り倒した男の手を踏みつぶす、その動きに。

 

あと10年早く撮っていればかなり印象が違う作品になっていただろうと思う。

しかし、と、しかしを重ねてしまうが、今撮られたからこそ、別の、メタな視点からも観ることができる作品になっている気もする。たとえデ・ニーロがフランク・シーランではなくデ・ニーロに見えてしまっても、それはそれでいい、というような。むしろそれによって、作品が別の意味を帯び、深みを増すかのような。

 

作中で「時が経つのはあっという間だ」と、誰かが言っていた。ジョー・ペシ演じるラッセル・バッファリーノの言葉だっただろうか。これほど陳腐で、なおかつ真実である言葉はないように思うのは、私自身、だいぶ年を重ねてきたせいかもしれない。

時が経つのはあっという間、人のする事は全て虚しい。そしてその虚しさの積み重ねが人間を形作り、世界を作っているのだろう。

 

誰かの思惑で人の命が簡単に奪われる裏社会の虚しさは、終盤発せられるラッセル・バッファリーノの一言「やりすぎたかもしれん」で極まる。この言葉を聞いた時の、デ・ニーロ演じるフランク・シーランの表情の複雑さはさすがだ。今更やりすぎたと言われても失われた命はとり戻せない。

 

本作は、前述の謎に一つの答えを出しているが、それが真実か否かはわからない。それを明らかにすることは本作の意図するところではないだろう。いずれにせよ、最後に行き当たるのは虚しさだ。

何があったにせよ、どんなふうに生きたにせよ、もはや誰もこの世にはいない。同様に、私たちもいずれはこの世から消えていくのである。