WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『私の知らないわたしの素顔』-渇望の内実

f:id:hodie-non-cras:20200719000225j:plain

 

2019年製作/101分/R15+/フランス

原題:Celle que vous croyez

監督:サフィ・ネブー

製作:ミシェル・サン=ジャン

原作:カミーユ・ロランス

出演:ジュリエット・ビノシュニコール・ガルシア、フランソワ・シビル、ギョーム・グイ



本作はまるで、同じジュリエット・ビノシュ主演、監督はクレール・ドゥニの『レット・ザ・サンシャイン・イン』の裏返しのような作品だ。

 

f:id:hodie-non-cras:20200719000544j:plain

http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=119

 

どちらも、子どもを持ち離婚した(どちらかと言えば相手の都合で)中年女性が恋愛をあきらめきれない物語である。そしておそらくどちらも若い人が観てもあまりピンとこない作品ではないだろうか。なぜなら性を伴う恋愛の意味は青年期と中年期では大きく違うからだ。

 

そもそも恋愛とは、種の子孫繁栄のために遺伝子に仕掛けられた装置である(たぶん)。青年期のそれは、突き詰めれば子を生すことに向かって進められるゲームのようなものだ。(もちろんこれは物事を単純化した物言いであって、人間には“子を生さない”という選択肢もあるし、様々な理由で子を生せないこともある。その場合には恋愛は成り立たないというわけではない。人間とは想像以上に複雑なものだ)

 

本作の主人公クレールは離婚した後、付き合っていた若い恋人リュドから居留守を使われるなどすげなくされ、ちょっとした思い付きから、フェイスブック上に他人(若い女性)の写真と偽名を使ったアカウントをつくってしまう。そしてリュドの居留守を助けた友人アレックスをそこで発見し、近づいていく。そもそもはリュドの動向を知りたいことから発した行動だったが、次第にアレックスに夢中になっていく…

いつでも男性がいないとダメなタイプの女性はいるが、クレールもそういう女性というだけなのだろうか。あるいは、フランスが、カップルという単位を成すことができてこそ大人として参加資格が得られるかのような社会だから、“おひとりさま”に耐えられないということなのだろうか。

 

フェイスブックのアイコンに設定した写真の、若い女性は誰(あるいはどういう関係の人)なのだろうか、というのは、それが終盤で明かされる前に、察しが付く人には察しが付く。

 

 

(ここから先、思い切り内容に触れていますのでご注意ください)

 

 

アイコンの写真が姪というところまでは分からなかったが、元夫の浮気あるいは不倫相手であるだろうことはなんとなく察した。夫に裏切られ、遺棄されたという思いが、常に恋人を求める気持ちに繋がっていったのだろうと想像したからだ。クレールが恋人を求めるのは、たんに「男性がいないとダメ」なのではなく、またいわゆる「男遊び」をしたいわけでもない。誰かに必要とされること、誰かに大切にされることを、狂おしいほどに求めているということなのだ。だから相手はリュドでもアレックスでもどちらでもいい。しかしそれだけなら、性を伴わない関係であってもいいのではないか。自身の子どもたちではだめなのだろうか。

 

元夫を奪った姪、カティアは若く健康で美しい。これから元夫の子を産むかもしれない。その事実は、人生の半ばを過ぎたクレールにとって、大きな打撃となる。自らも子どもを産んだ経験があることがなおさらその打撃を大きなものにする。出産したのは遠い過去の話で、それは今の自分にはもはや不可能なことなのだ。性を伴う激しい渇望は、女性として終わっていくことへの恐怖の置き換えであり、渇望による行動は、その恐怖からの逃避である。女性として終わった先にあることは、人間として終わること、すなわち死だ。

先に本作を若い人が観てもあまりピンとこないだろうと書いたのは、このように自分の行くさきに死への階段が地続きで見えてくるような感覚は、若い人には想像しづらいと思うからだ。

 

世に浮気や不倫の話は山ほどあり、それらの状況や成り行きは、突き詰めれば似たり寄ったりだ。本作を「同居させてあげていた自分の姪と夫が不倫して離婚に至り、姪と夫は結ばれて、一人になった女が新しい男を求め、次第にメンタルをやられてしまう話」と言ってしまえばそれまでだが、やられたメンタルの内実を深く探ってみるなら、表層とは違ったものが見えてくるはずである。まあ、それもまた似たり寄ったりなのかもしれないが。