WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『行きどまりの世界に生まれて』

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2018年・アメリ

原題:Minding the Gap

監督:ビン・リュー

製作:ダイアン・クォン、ビン・リュー

出演:キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リュー、ニナ・ボーグレン、ケント・アバナシー、モンユエ・ボーレン



スケーターについての映画は本作を含めて三作観ている。

最初に観たのが『スケート・キッチン』(2016・アメリカ)

http://skatekitchen.jp

これはニューヨークを舞台にした、女の子の話。

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次が『mid 90's ミッドナインティーズ』(2018・アメリカ)

http://www.transformer.co.jp/m/mid90s/

こちらはロサンゼルスを舞台にした、男の子の話。

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二作ともフィクションではあるけれども、思春期のスケーターたちのリアリティを自然に写し撮っていて、胸に何かを残す良い作品だった(これらについてもいずれ記事にするかも)。

 

本作『行き止まりの世界に生まれて』はドキュメンタリーであり、舞台は上記二作の間(真ん中よりは東寄りだけれども)のような、イリノイ州ロックフォード。「ラストベルト(錆びついた工業地帯)」と言われる地域だ。公式サイトでもその他宣伝媒体でも、この地域の閉塞性に言及し、そこから逃れようとする若者たちの話であるとしている。

実際本作で、昼間から人通りのない街、車の少ない大通りなどを見る限り、活気のない街であることが感じられる。しかし、ニューヨークとロサンゼルスを舞台にした他の二作と本作に登場するスケーターたちの間には、地域の閉塞性を超えた何か、どの地域にも通じるものがある気がしてならない。

スケーターたちの世界は、地域を問わず現実の社会(=大人)からみるとちょっとした異世界とも言えるのではないだろうか。車やバイクでなく、かと言って足でもない、“特別な乗り物”に乗る者たちだけが入ることのできる世界だ。そこに集う若者たちの胸には共通する思いがあるように思える。

彼らそれぞれの家庭でどんな問題があるのか、あるいは何もないのか、それはわからない。あってもなくても、彼らの心の中にはなんとなく隙間があり、家の中に落ち着くところがないという感覚があるのではないか。そしてそれは多くの思春期の若者に共通する感覚だと思う。それは一種の「寂しさ」と言ってもいい。

本作に登場するキアー、ザック、ビンはそれぞれの事情を抱え、そこから逃れるようにしてストリートへ出た。『スケート・キッチン』のカミーユ、『mid90s ミッドナインティーズ』のスティーヴィーも同様だ。(前者が女の子、後者がローティーン、ということで、本作とはまた違った側面が描かれるため、本作をごらんになった方には、ぜひこの二作もご覧頂きたいと思う)

思春期の若者にとっては、どんな家であってもそれ自体がすでに閉塞的であり、若者とは外へ出ていくものなのだ。

若者は外へ出る、そしてそこで仲間を見つける。さまざまな場所で。それはクラブかもしれないし、ライブハウスかもしれないし、図書館かもしれないし、ヴァーチャル空間かもしれない、しかし学校ではないような気がする、でもまあとにかく、いろんな場所やいろんな結びつきがあるだろう。

私はなぜか他の若者たちよりもスケーターたちに惹きつけられる。

私自身は「滑りもの」がおしなべて苦手で、スケートボードに乗ったことはない(正確には10代の頃、上に乗ってみたことはある。そして片足で地面を蹴って進むくらいはやったことがあるが、両足で乗ってシャーっと滑ったことはない。あったかもしれないが、間違いなくしりもちをついていたはず)。

そういう私にとって、彼らが疾走する姿は単純にかっこいいし、気持ち良さそうで羨ましい、だから惹きつけられる、ということはあるかもしれない。しかし多分それだけではない。

ストリート(競技場でなく)で、思春期という、心も身体も大きく変化する激動の時期の、暴力的なまでにやり場のない気持ちをスケートボードに乗せて疾走する彼らは、目の前に立ちはだかるシリアスで退屈な社会に必死で抵抗しているように見える。そちら側には行きたくない。子ども時代の終わりと大人の社会への入り口の狭間でもがき、不安や苦しみを身体的な課題(難しい技や、危険なあるいは禁止された場所で乗るなど)に置き換えて乗り越え、楽しさや喜びに変えようとするその姿に、文字通りの刹那さを見て胸がわさわさし、切なくなるのだ。

一緒には居るけれど、結局は一人一人、自分自身のボードに乗って自分だけで走る。課題は各自それぞれだけれど、周りには仲間がいる。そういう、仲間と自分との微妙な距離感がいかにも“家族”と似ていて、だから仲間のいる空間が、彼らが“帰って来たい場所”として機能しているのではないだろうか、とも思う。(そして、時期がくるとそこを離れて行く、という意味においても、家族と似ている)

三作に共通して、彼らの中に彼ら自身をビデオに収める人物が出てくる。スケートボードで疾走する様は殊更にビデオジェニックであるから、彼らをビデオに撮りたいと思うことは極めて自然であるが、撮影者が“彼ら自身”の一人であることが、貴重でありまた特殊である気がする。多くの場合、撮影者は単に撮影者であり、内部の者が持つ親密な視線を持つことが難しい。

その意味で、ビン・リュー監督は、インサイダーにしか引き出し得ない何かを本作に写し撮っているように思える。