WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『写真の女』ー とりあえず、踊ろう

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脚本・監督:串田壮史

出演:永井秀樹、大滝樹、猪股俊明、鯉沼トキ

 

公式サイト:https://womanofthephoto.com

 

(以下、内容に触れています)

 

常に白いスリーピースを身につけ、一言も発しない男、械は、写真館を営んでいる。古めかしい写真館の佇まいとは裏腹に、写真をスキャンしてパソコンに取り込み、依頼通りにサクサクと修正したりしている。そして17時になると店を締め、白いタオルを持って銭湯へ行く。一人暮らしの家にはカマキリがいる。子どもの頃からの昆虫趣味が今でも続いているのだ。

ある日、昆虫写真の撮影に訪れた林の中で、どこかから落ちてきて木に引っかかった女を発見し、行きがかり上、家に連れて帰る。女は胸元に大きな傷を負っていた。

女は今日子といい、バレエでステージに立っていた過去の栄光が忘れられず、日々SNSに写真を投稿し、不特定多数から賞賛を得ようと躍起になっていた。

怪我を負った後は、械に撮影してもらい、傷口を修正してもらった写真を投稿し始める。しかし、フォロワーや“いいね”は減る一方。ある日「ありのままの自分」として、傷の生々しさもそのままの、無修正の写真を投稿したところ、思いの外の賞賛を得る。歓喜する今日子だったが、今度は「では、傷が治ったらどうなるのだろう」という不安に駆られ、、、



何を隠そう私は傷フェチだ。正確にいうと傷“跡”フェチなので、生々しい傷はあまり得意ではない。なのでホラー映画もあまり得意ではないが、知らずにみた本作は紛れもなくホラー映画だった。と言っても、殺人鬼やゾンビが襲ってきたり幽霊に脅かされたりする類のものではない。

 

傷(瑕疵)とは修正されるべきもの、隠すべきものというSNS世界/ヴィジュアル世界の通念があり、多くの人が日々写真の修正に励んでいる。風景から邪魔なものを消すのを始め、顔や姿の加工、場合によっては写真だけにとどまらず、実物を外科手術で変えてしまうことすら今や珍しいことではない。

しかしSNSの世界には、逆に傷こそが個性でありむしろ誇示すべきもの、という反対概念も同時に存在する。個性こそが賞賛される現代においては、傷を晒すこともまた賞賛の対象となるのだ。

人々からの賞賛を求めSNSにアップする写真を、美しく修正された“理想的な私”から“ありのままの私”に変え、さらに“ありのままの私”をありのままたらんとするために、胸の傷を維持しようとする今日子の行為は、美しさを求めて実物を外科手術で変えてしまう行為と表裏一体をなすものだ。

 

胸の傷は心の傷の外在化であり、械がタブレットとペンでパソコン上の傷を修正するシャカシャカシャカという音とシンクロして、自らの傷を指でグリグリグリと擦って拡げる行為は、それ自体が音のない悲痛な叫びである。その叫びは、誰もが一度は経験したことがあるであろう、身体上の傷の生々しい痛みの感覚を、観ている私たちの内に呼び覚ます。その時私たちは今日子の痛みを内在化している。そしてそれこそがホラーなのだ。

 

画面構成、場面転換、音響(アフレコ)など、計算され組み立てられた作品で、ホラーでありながらコメディ要素もある。会話の間や械の表情、衣装、カマキリなど、コメディというかなんというか“いたずらっぽさ”のようなテイストだ。

そのせいか、鑑賞しながら大林宣彦監督の『HOUSE』を思い出した。本作は全編を通して音響が際立っているが(意図的にそう作られている)、とくに咀嚼音が出る場面で、南田洋子が食事中にニコッと笑って口を開くと目玉が見える、という『HOUSE』の一場面が思い浮かんだ。『HOUSE』は封切り時に映画館で観て以来、観ていないので、実際その場面でどんな音がしていたかは思い出せない。

 

写真を撮る/に撮られる(を撮らせる)という行為は、二人でダンスを踊る行為に似ている。最後には実際に今日子が踊りだす。それは、美しく賞賛される存在である(あった)自分、傷つき出口を見いだせない自分、どれが自分なのか、一体自分とは何なのか、本当の自分はどこにいるのか、そういうことはとりあえず傍に置いて(ついでにSNSも)、リアルに今ここで踊ったみたらどうか、という提示のように思える。

井上陽水の「夢の中へ」で歌われるように、まだまだ探す気ですか、それより僕と踊りませんか、探すのをやめた時、見つかる事もよくある話と。