WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『JUNK HEAD』ー 生きている人形たち

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監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽・

絵コンテ・造形・アニメーター・効果音・VFX・声優・etc:

堀貴秀

 

gaga.ne.jp

 

文楽が好きで劇場に観に行っていた時期がある。

同じ伝統芸能でも能や歌舞伎にはさほど惹かれず、また観たいと思うのは文楽だけだった。観る演目はほとんど世話物、ことに心中物ばかり。人形は、何と言っても死ぬ場面が素晴らしいのだ。
そもそも生きていない人形を死なせる技術、死なせることによって「確かに生きていた」と思わせる、感じさせる技術に心を奪われ、果ては「生きているとはどういうことなのだろう」「生きている者が持つ感情とその表出とはなんなのだろう」と考えさせられたものだった。この疑問にはまだはっきりとした答えが出ていない。

生きていないはずの人形に感情があるように見えるのはなぜなのか。

青年団主宰の平田オリザが、ロボット演劇『働く私』を作ったときに語っていた言葉を思い出す。
人間には内面というものがあって、それを言葉などで表出させようというのが近代演劇の考え方だが、そうではなくて、表出の方が先にあって、そこに私たちは心を感じるのではないかと思う、というような話だった。
ある角度やある速さである動きをする、あるいは動かない、ある間で言葉を発する、あるいは黙る。そこに「心」があってもなくても、見る者が「心」を感じ取ってしまう動きや間がある。そういう動きや間を作り出すことが演出ということになるだろう。

『JUNK HEAD』の人形たちは、その個性的な造形の愛らしさもさることながら、明らかに人形なのに生きているとしか思えないほど表現豊かに動き(実際には動かされているわけだし、そのことをわかってもいるのだが)、ともするとその素晴らしさに気づけないほど自然である。
また、ほとんどのキャラクターが、口ほどにものを言うはずの眼を持たないにもかかわらず、1秒24コマの的確なアングルやショットによって見事に感情を表している。
パンフレットを読んだところ、堀貴秀監督は過去にマリオネットの製作もしていたそうなので、マリオネットを使うこともやっていただろうと思う。人形の生かし方を知っている人なのだ。

ストーリーは、核によって生態系が崩壊し地上は汚染されたため地下が人類の生活圏となる、遺伝子操作で労働力となる生命体をクローニングする、クローンが反体制を組織する、未知のウィルスによる人類存続の危機… などなど、パンフレットを読むと細かい設定があるが、大筋はディストピアでの冒険譚である。中盤に少し違う展開があるともっと良かったのではないかと思うが、人形やセットの造形を見るだけでも充分と思わせる作品だ。何よりスチームパンクな世界観が自分の好みで、できることならバルブ村の真ん中に立ってみたいが、もうあの世界はどこにも存在しない。映画の中以外には。(パンフレットに見開きで写真が載っているがいくらでも眺めていられる。バルブ村のセットは製作に半年を要したとのこと)

本作のエンドロールは凄まじいことになっている。

4年かけて一人で作った30分の短編を長編にする際に数人のスタッフが加わったとのことだが、そもそもは監督一人で始めたため、クレジットの大部分が「堀貴秀」で埋まっている。文楽で言うなら、人形のかしらもかつらも衣装も小道具も舞台も一人で作り、かつ、照明も太夫も三味線も人形も一人でやるようなものだ。映画の場合、それをカメラに収めて編集するという作業も加わる。その創作意欲と実行力には感嘆するしかないし、堀監督には褒め言葉としてクレイジーという言葉を贈りたい。



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