WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

孤独の中で触れ合う魂 『少年の君』

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『少年の君』

2019年製作/135分/G/中国・香港合作
原題:Better Days
配給:クロックワークス
監督:デレク・ツァン
脚本:ラム・ウィンサム リー・ユアン シュー・イーメン
撮影:ユー・ジンピン
出演:チョウ・ドンユィ、イー・ヤンチェンシー
公式サイト:https://klockworx-asia.com/betterdays/

 

あらすじ

進学校に通う成績優秀な高校3年生のチェン・ニェン。全国統一大学入試(=高考)を控え殺伐とする校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜め卒業までの日々をやり過ごしていた。そんな中、同級生の女子生徒がクラスメイトのいじめを苦に、校舎から飛び降り自らの命を絶ってしまう。少女の死体に無遠慮に向けられる生徒たちのスマホのレンズ、その異様な光景に耐えきれなくなったチェン・ニェンは、遺体にそっと自分の上着をかけてやる。しかし、そのことをきっかけに激しいいじめの矛先はチェン・ニェンへと向かうことに。彼女の学費のためと犯罪スレスレの商売に手を出している母親以外に身寄りはなく、頼る者もないチェン・ニェン。同級生たちの悪意が日増しに激しくなる中、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、とっさの判断で彼シャオベイを窮地から救う。辛く孤独な日々を送る優等生の少女と、ストリートに生きるしかなかった不良少年。二人の孤独な魂は、いつしか互いに引き合ってゆくのだが・・・。(公式サイトより)

 

複雑な構造の街で起こる、いじめに端を発した物語

映画館で予告を見て、まずその色彩に惹かれた。
これは、いじめという名の苛烈な暴力が、複雑な構造の街の淡い光の中で展開される物語だ。
この街(重慶だそうだ)を舞台に選んだことは、本作の成功に間違いなく一役買っている。重層的な構造、明るさと暗さといった街の複雑な顔が、作品を重層的にし深い世界観を構築する大きな要素となっている。

主人公の少女チェン・ニェン(チョウ・ドンユイ)の家から学校までの道のりは、坂道や階段やエスカレーターでアップダウンする。道の高低差が高い塀のようになっていたり、低い位置から見上げた道のさらに上に高層ビルが立ち並んでいたり、そうかと思えば鬱蒼とした並木道があったり、これがまるで、例えば主人公が暗い森を抜けてどこかへ行くファンタジーのような、異世界への道のりであるかのように感じられる。いつどこから何が出て来るかわからない不穏さが漂っているのだ。この場合、異世界なのは学校なのかチェン・ニェンの家なのか、あるいは両方なのか、それはわからない。

異世界を行き来するチェン・ニェンは、クラスメイトの自殺事件をきっかけに、学校世界で権力を持つ金持ちの女子生徒たちにとっての“異物”となり、激しいいじめ(というよりはっきり暴力といったほうがいい)を受けるようになる。

 

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本来なら砦となるはずの自分の家に、守ってくれるはずの母はいない。“悪気なく”危ない商売をして追われる身の母は、チェン・ニェンにとってただ一人の肉親だが、“悪気なく”チェン・ニェンを置いてどこかへ行ってしまっている。時折連絡は来るし、言葉かけは優しい。この母には「子を遺棄している」自覚は全くない。

どこにも居場所のないチェン・ニェンにとって唯一の希望は、全国統一大学入試(=高考)を好成績で突破して北京大学へ行くことだ。現在、どれほど過酷な状況にあろうとも、勉強だけはしなければならない。どんな仕打ちをされても学校へは行くのだ。

 

出会ってしまった孤独な魂

ある日、シャオベイ(イー・ヤンチェンシー)が街の不良たちからリンチされているところに通りかかったチェン・ニェンは、その光景から目をそらすことが出来なかった。そこに自分を見たのかもしれないし、そうでないかもしれないが、とにかく立ちすくんでしまう。
不良どもはチェン・ニェンに、彼らがいかにも言いそうなことを言う。

「こいつが好きなのか。それならキスしてみろよ」

 

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この事件をきっかけに、二人は徐々に近づいて行く。シャオベイはチェン・ニェンが登下校時に暴力を受けないよう、距離を取りつつ(ここが痺れるところだ)見守り、チェン・ニェンはシャオベイの家に立ち寄るようになる。

シャオベイの家は、道路か橋のようなところの下に、嵌め込むような形で作られた隠れ家のような家だ。家族はいないし、それについてはほとんど語られない。木の上ではないけれども、寓話的なビジュアルがツリーハウスを想起させる。実際チェン・ニェンにとってはある種の避難場所だったから、ツリーハウスのような役割を果たしていたと言っていいのかもしれない。

二人が手を繋いで歩くことはない。でもある日バイクに二人乗りをした時、二人の顔には自然と柔らかな笑みが溢れる。幸せとはこのように儚く刹那的なものであることもあるのだ。

 

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胸に刺さるキス

チェン・ニェンにとってシャオベイが(そして逆も)唯一の居場所となり始めたとき、衝撃的な事件が起こる。その事件の渦中で、二人は二度目のキスをする。

作中の二度のキスは両方とも切ない。どちらも作られた状況の中でのキスだ。一度目はシャオベイを救うため、二度目はチェン・ニェンを救うためのものだった。
二度目のキスは、個人的にはこれまで映画を見てきた中で一番といっていいくらい切ない。表面的には、愛とは真逆の状況を作品世界の中で作り上げるために行われる。しかし観客の私たちは、その奥底で二人が確実に愛を通わせたことを感じてしまうのだ。

いじめや過酷な大学受験、ストリートチルドレンといった社会問題を扱った本作は、それら自体が作品のテーマともなりうるものだ。しかし本作はなによりもまず、切ないラブストーリーだと思う。
チョウ・ドンユイとイー・ヤンチェンシーは、それぞれチェン・ニェンとシャオベイの孤独と切ない思いを強く美しく演じきっている。

終わりの方で、冒頭につながる「現在」を描いているが、この部分はなくても良かったかもしれない。なければ二度目のキスシーンの痛切さが増す。しかし、そうなると観客は処理しきれない感情を抱えて家に帰らなければならなくなるだろう。だからあって良かったのかもしれない。ここは好みが別れるところだと思う。

 

ところで、本編終了後の、現在の中国におけるいじめ撲滅への取り組み等のインフォメーション的な部分は、作品には全く必要ないことは明白だ。しかし政治的な事情で付けざるを得なかったのかもしれない。ここは目を瞑るしかないだろう。