WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

名もなき人々へ 『名もなき歌』

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『名もなき歌』

2019年製作/97分/ペルー・フランス・アメリカ合作

原題:Cancion sin nombre
配給:シマフィルム、アーク・フィルムズ、インターフィルム
監督:メリーナ・レオン
製作:インティ・ブリオネス、メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
脚本:メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
撮影:インティ・ブリオネス
美術:ジゼラ・ラミレス
編集:メリーナ・レオン、マヌエル・バウアー、アントリン・プリエト
音楽:パウチ・ササキ
出演:パメラ・メンドーサ・アルピ、トミー・パラッガ、スぺルシオロハス、マイコル・エルナンデス
公式サイト:
映画『名もなき歌』公式サイト

 

あらすじ

1988年、政情不安に揺れる南米ペルー。貧しい生活を送る先住民の女性、20才のヘオルヒナは、妊婦に無償医療を提供する財団の存在を知り、首都リマの小さなクリニックを受診する。数日後、陣痛が始まり、再度クリニックを訪れたへオルヒナは、無事女児を出産。しかし、その手に一度も我が子を抱くこともなく院外へ閉め出され、娘は何者かに奪い去られてしまう。夫と共に警察や裁判所に訴え出るが、有権者番号を持たない夫婦は取り合ってもらえない。新聞社に押しかけ、泣きながら窮状を訴えるヘオルヒナから事情を聞いた記者ペドロは、事件を追って、権力の背後に見え隠れする国際的な乳児売買組織の闇へと足を踏み入れるが―。(公式サイトより)

  

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南米で先住民の女性を描いたモノクロ作品というと、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA』(2018)が記憶に新しい。客観的なカメラで政治的混乱に揺れる1970年から1971年のメキシコを静かに描いた作品だ。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

ペルー先住民の暮らしの閉塞感

『ROMA』の主人公の先住民女性クレオは、街中に住む裕福な白人一家の家政婦だったので、伝統的な文化の類はほとんど登場しなかった。本作『名もなき歌』の主人公ヘオルヒナは、同じ先住民で民族舞踊の踊り手である夫レオと丘の中腹に建つ簡素な家に住み、先住民のコミュニティの中で暮らしている。そのため作中に民族楽器の演奏と歌やダンスの場面が登場する。本作の方が『ROMA』より20年近く新しい時代設定だが、逆のような印象を受けるのは、洗練された都会の文化を感じさせる場面があまりないからかもしれない。

 

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ちなみに本作は、1980年代に実際に起こった国際的な乳児売買事件を元に作られたフィクションである。メリーナ・レオン監督は、当時この事件を調査していた新聞記者だった父親からこの話を聞き、映画を作るに至ったとのことだ。

 

本作に特徴的なこととして、モノクロであることの他に画面サイズがあげられる。4:3のスタンダードサイズをあえて採用したことにより、作品世界の閉塞感が画面から伝わってくる。ヘオルヒナが暮らす広々とした丘でさえ、画面から受ける印象に開放感はあまり感じられない。また、スチルではわからないが、上映時にうっすらと画面の輪郭がぼやけているのは、敢えてそうしていて、当時のテレビ画面を模しているのだそうだ。

 

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女性であることの不利益と様々な社会問題

民族やジェンダーによる差別、同性愛への偏見、貧困、人身売買、インフレ、官僚や政治家の腐敗、テロリズムなど、本作で扱われる問題は数多いが、全編を通して台詞は最小限で、出来事と清冽な映像の示唆によって静かに語られる。『ROMA』でもそうだったが、本作でも、この国の歴史や政情を知らないとわからない部分もあるだろう。しかしそういった部分を除いても普遍的な問題については十分理解できる。

 

『ROMA』のクレオは、授かった子どもを産むことができなかった。本作のヘオルヒナは出産直後に子どもを奪われている。現れている現象は違うが、ことの本質は同じだ。ヘオルヒナもクレオ原住民であることと女性であることで、二重に虐げられている。二人とも他者から人間性を奪われているのである。

 

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ヘオルヒナの夫レオが、貧しさから仕事を求めるあまり踏み出してしまう方向は、クレオの恋人が走った方向とは逆だが、これもまた本質的には同じだ。経済的に逼迫していると、行動の選択肢が狭められる。やらずもがなのことまでやりかねないのだ。名目はどうあれ、二人の行動は暴力に他ならないが、二人には他にどのような選択肢があっただろう。(これは形式疑問文ではなく本当の疑問文だ)

 

この二作は、扱うエピソードも違うし表現方法も違うが、テーマの根本はほぼ同じなのだと思う。

 

メキシコやペルーで起こっていた(/いる)、これらの社会問題は日本には関係ないだろうか。

江戸時代には子どもが売り買いされていた日本でも、流石に現代では、官僚や政治家まで関与して生まれたての子どもたちを海外へ売るというようなことは起こらないだろう(確信はないが)。しかし日本で暮らす様々な人々が様々な理由で不当な扱いを受けている例は枚挙にいとまがない。いつ自分がヘオルヒナになってもおかしくないのだということは、頭の隅に置いておいたほうがいい。

 

不当に子を奪われ、(今は)虚しく子守歌を歌うしかないヘオルヒナの幸せを願うなら、自分にできることは何かを考え、行動していくしかない。それがたとえ取るに足らないようなことであっても。