WILD SIDE CLUB - 映画について -

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『希望の灯り』ー 通路にて

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原題:In den Gangen
製作年:2018年
製作国:ドイツ
監督・脚本:トーマス・ステューバ
原作・脚本・出演:クレメンス・マイヤー
プロデューサー:ヨッヘン・ラウペ
出演:フランツ・ロゴフスキ、ザンドラ・ヒュラー、ペーター・クルト
ヨーロピアンビスタ 125分

 

東西統一後の、旧東ドイツライプツィヒの巨大スーパーマーケットで働く人々の日常が紡ぐ物語。原題の日本語訳は『通路にて』で、同名の短編小説から本作が作られた。(個人的には『通路にて』の方が好きだ。なぜなら“通路”が好きだから)

所収の短編集「夜と灯りと」は現在品切れ中だそうで、某通販サイトでは中古で15,000円以上の値がついている。邦題の『希望の灯り』は、この短編集のタイトルと絡めているのかもしれないが、アキ・カウリスマキ監督作品『街のあかり』を意識してつけられたようにも思う。どちらの主人公も無口で孤独な男であり、近づいてきた女に恋をする。

 

(以下、内容に触れています)

 

原作のタイトルにもある通り、本作はスーパーマーケットの通路(売り場)を主な舞台としている。無口な青年クリスティアンが在庫管理係として採用され、無骨だが面倒見の良い中年の飲料係ブルーノの働く“通路”へやってくるところから話は始まる。

「袖は下ろしておいた方がいい。気にする客もいるからな」と言われるクリスティアンの首から背中、手首までの腕にはタトゥーが施されている。一見朴訥に見える青年にはそれなりの過去があるのだろう。あてがわれたブルーの上っ張りを羽織る背中からのショット、続いて両袖を引っ張る肘から下のショットは、本作の中で繰り返され、スーパーの仕事のルーチン的な側面を強調するとともに、クリスティアンの素直さや生真面目さを表現している。

男性の上っ張りだけでなく、女性のユニフォーム(ベストとスカート)もブルーであるが、この“ブルー”は本作において象徴的な意味を持つことがやがてわかってくる。

通路の商品棚を挟んだ向こう側にお菓子担当のマリオンを発見したクリスティアンは恋に落ちる。マリオンもまんざらではない様子だが、彼女は既婚者だと同僚から知らされる。通路にマリオンが登場する時、あたりには波の音がする。休憩室の壁にはどこかのビーチの絵が描かれている。クリスティアンが、しばらく仕事を休んでいるマリオンを見舞うために訪れ、結局は忍び込んでしまったマリオンの家の机の上には、やりかけの海の絵のジグソーパズルがある。スーパーには鮮魚のストックがあり、水槽で魚が跳ねている…

青はつまり海だ。では海は? 近くに海のないライプツィヒの人々にとって、というか、ライプツィヒの、元は長距離トラックの配送公社だった現スーパーマーケットで働く人々にとって、海とはどういう意味を持つのだろうか。

“通路”で働く日々を繰り返す自分を、水槽にいれられた魚のようだと思うなら、海とはここを出た先にある自分の帰る/帰りたい場所である。トラックの運転手として街から街へと泳ぎ回っていた日々から、ある日突然、スーパーマーケットという水槽の中に入れられたブルーノは、楽しかった過去を思いフォークリフトに波の音を聞く。青はもしかしたら魚なのかもしれない。そしておそらくブルーノは、魚でいることに耐えられなくなってしまったのだろう。もう水槽へは戻らないと決めたのだ。

マリオンは「ブルーノから教わったの」と、フォークリフトから波の音がすることをクリスティアンに教える。二人がいる通路の先には海が見える。この挿話は詩的で美しく、見る者にじんわりと余韻を残す。

鑑賞後もやはり私は『通路にて』というタイトルに惹かれる。それぞれが様々な事情を背負い、思いを心に秘めつつやってくる場所。毎夜そこにともる灯りは希望なのか否か。その判断をあらかじめ決められたくない、と思う。たとえそれが間違いなく希望であるとしても。

登場人物にはみな、実在するとしか思えないようなリアリティがある。フランツ・ロゴフスキは、無口で静かだが何をするかわからないようなクリスティアンの複雑な人間性を、ほとんどせりふがない中で表現することに成功している。ワルツやブルース、波の音などの音響も効果的で、少しくすんだような色使いが、見も知らぬ旧東ドイツにノスタルジーを感じさせる作品である