WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『MONOS 猿と呼ばれし者たち』

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2019年製作/102分/R15+/コロンビア・アルゼンチン・オランダ・ドイツ・スウェーデンウルグアイ・スイス・デンマーク合作

原題:Monos

配給:ザジフィルムズ

監督・製作:アレハンドロ・ランデス

脚本:アレハンドロ・ランデス、アレクシス・ドス・サントス

撮影:ヤスペル・ウルフ

編集:ヨルゴス・モブロプサリディス

音楽:ミカ・レヴィ

出演;モイセス・アリアス、ジュリアンヌ・ニコルソン、ソフィア・ブエナベントゥラ、フリアン・ヒラル

公式サイト:http://www.zaziefilms.com/monos/

 

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冒頭、壮大な自然を背景に、高台で複数の人々が何かをしている様子が遠くから映し出される。カメラが徐々に寄って行くとようやく、その人々は年若い者たちであり、どうやらブラインドサッカーをしているのだということがわかる。

 

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そこは高台であるということだけはわかるが、他になんの目印もなく、人工的とも言えるような独特な色彩から、まるでどこか他の惑星のようにも見えるし、あるいは近未来の一風景のようにも見える。

 

予告動画やウェブサイトにある文言によって、本作がゲリラ組織に属する少年少女兵たちの話だということは事前に知ることができる。彼らはどこかの山岳地帯で一人の女性を人質として監視し世話をしている。私たちにわかることはそれだけだ。
本作には作品の背景について、キャプションなどはないし、セリフや映像においても、説明的な表現は一切ない。

 

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そこがどこなのか、いつなのか、彼らが誰なのか、属しているのはどんな組織なのか、なぜそこに属することになったのか、彼らと敵対するのは誰/どんな勢力なのか、人質の「博士」と呼ばれる女性は誰なのか、なんの目的で誘拐されたのか、時折起こる戦闘は何のためなのか、相手は誰なのか。沸き起こるさまざまな疑問に、最後まで明確な答えを得ることはできない。そしてそのことが作品の質をまったく損なっていないどころか、むしろ作品に普遍性を与えている。

本作中に発生するいくつかの死は、物語の背景を共有しない我々観客にとっては、全く無意味なものに見える。戦争は通常何らかの背景を持つものであり、当事者はその背景によって(双方異なる)正当性を主張する。そしてその限りにおいてのみ、そこで発生する死に意味を持たせることができるのだ。背景がない戦いとそれに付随する死は無意味であり、その背景は、実はそもそも当事者以外には理解できないか無意味、つまり、無いも同然なのだ。その意味において戦争は人の死を極限まで矮小化=無意味化する。本作はそのことを実感させてくれる。

 

本作は、少年少女たちの来歴や彼らの心理を感情的に描いて同情を誘うような手法を取らず、一切の背景を省き、“無意味な”戦いの中に置かれた彼らの動きを理性的に描写することにより、子ども兵士を産む社会や戦争を間接的に批判することに成功している。

 

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少年たちがじゃれあう牧歌的なシーンに、突如として銃声や爆発音が発生する。予想外のタイミングと方向から銃声が上がり、戦闘がいきなり始まる。そのようなシーンに驚かされる事によって、私たちは暴力の暴力性を改めて知ることになる。普段、映画やドラマの戦争や戦闘シーンを、いかに予定調和的な見方で観ていたかに気づかされるのである。

 

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カメラは、人の肌のきめや水の中の気泡の粒にまで寄るかと思えば、サーッと引いて高地の大自然を映し出す。時にじっくりと構え、時に対象とともに動く。ドキュメンタリータッチに見えることもあれば、実験映画のようなショットもある。ともすれば映像スタイルに一貫性がないように見えるほど自在だ。色彩も独特である。

マジックリアリズム的、というようなことも言ってみたい気がするが、いかんせんそれについての知識が乏しく、残念ながらとても引き合いに出せない)

 

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ロケ地となっている4,000m級の高地(富士山より高い)、激流の川、深い森、このように力強くギラギラと激しい自然を持つ南米という地域(一括りにするのは乱暴なこととは思う)は、そこで生まれ育つ人々をも強く激しくするに違いない。各地で内戦が起こり、それが長期化するのもそのような激しさを内包するゆえなのかもしれないと思えてくる。本作の撮影環境が厳しいものであっただろうことは言うまでもない。

 

ミカ・レヴィの音楽(*)は、本作の不穏さや寓話性を増幅させ、特異性を際立たせている。例えば本作に音楽がなかったら、よりドキュメンタリーに近い手触りになっていただろうし、クラシックのような音楽が使用されていたなら、全く違った印象を与える作品となっていただろう。

 

本作鑑賞前には『地獄の黙示録』(1979)や『蝿の王』(1963/1990)を連想したが、鑑賞後に思い浮かんだのは『2001年宇宙の旅』(1968)や『フルメタルジャケット』(1987)だ。しかしそれらに似ているというわけではなく、私自身の映画鑑賞歴が乏しいせいかもしれないが、これまで観たことがないタイプの映画である。「映像体験」という言葉があるが、それがふさわしい作品であるように思う。



Spotifyサウンドトラックを聴くことができる。(https://open.spotify.com/album/1p6acRNSUA1U4B5TvO333H

 また、公式サイトではサンプルが聴ける。

 

幸運にも、本作を配給されたザジフィルムズ主催の試写会にて一般公開前に鑑賞できた。

10月30日(土)からシアターイメージフォーラムにて一般公開される)