WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

身も蓋もない現実 『幸福(しあわせ)』

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1965年製作/80分/フランス

原題:Le Bonheur

配給:ザジフィルムズ

日本初公開:1966年6月4日

監督:アニエス・ヴァルダ

製作:マグ・ボダール

脚本:アニエス・ヴァルダ

撮影:ジャン・ラビエ クロード・ボーソレイユ

音楽:ジャン=ミシェル・デュファイ

出演:ジャン=クロード・ドルオー、クレール・ドルオー、マリー=フランス・ボワイエ、サンドリーヌ・ドルオー、オリビエ・ドルオー

 

 

アマゾンプライム会員の方は現在無料で視聴できます)

 

ヌーヴェルバーグの祖母といわれるアニエス・ヴァルダ監督の『幸福(しあわせ)』を始めて見たときは衝撃を受けた。本作で扱われているのはありふれた“妻子ある男の不倫”だが、その扱われ方はよくあるものではなかったからだ。これほど官能的でない不倫映画を、私はほかに観たことがない。

映像の面では、絵画的な風景や原色使い、赤と青の対比や状況を表す看板文字などが目を引く。クラシック音楽はほとんど知らないが、本作で使用されている、のどかでありながら悲哀や陰影を含むようなモーツァルトの楽曲は、本作の本質を突くような選曲だと思う。

 

あらすじ

叔父のもとで働く内装職人のフランソワ(ジャン=クロード・ドルオー)は妻のテレーズ(クレール・ドルオー)と二人の子どもたちと仲睦まじく暮らしている。裕福でないにしろ生活に不満はなく、幸福な日々を送っている。

ある日出張先で、郵便局の窓口にいたエミリー(マリー=フランス・ボワイエ)を見初めてカフェに誘う。その後、偶然エミリーがフランソワの住む街に引っ越して来て、二人は逢瀬を重ねるようになる。

そんな関係がひと月ほど続いたある日、いつもの家族のピクニックの際、フランソワがテレーズに、ほかに愛している女性がいることを打ち明ける。

 

個人的な印象だが、テレーズといえば『嘆きのテレーズ』(1953)や『テレーズの罪』(2012)などのせいか、死や犯罪のイメージがつきまとう。どちらも映像作品は見ていないのだが、それぞれ原作のエミール・ゾラ著『テレーズ・ラカン』(1868年刊)とフランソワ・モーリヤック著『テレーズ・デスケルウ』(1927年刊)は読んでいる。前者に至っては19世紀の作品だが、現代的な問題を含んでいて、今読んでも面白いと思う。

 

       

 

 

これらの印象が強いため、フィクションの中のテレーズという女性が何事もなく幸福でいられる気がしない。『幸福(しあわせ)』と題された本作の、明るく優しく気のいい妻の名前がテレーズなのもおそらく偶然ではないと思う。

テレーズ・ラカンもテレーズ・デスケルウも自身の行動によって物語を動かす。本作のテレーズはどうだろうか。

 

 

(以下、内容に触れますのでご注意ください)

 

 

夫と子どもたちを愛し、世話をし、洋服の仕立ての仕事をするテレーズには何も問題はなく、フランソワもそんなテレーズを愛していると言う。浮気の原因など見当たらない。発端は、申し分ない生活の中、フランソワが“出張先で可愛い子に出会った”というだけのことなのだ。

 

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フランソワがエミリの部屋に初めて行った時、初めてのキスの後、エミリが言う。「私“も”愛してる」。しかしここでフランソワはエミリに「愛している」とは言っていない。ただ見つめてキスしただけだ。

 

時に恋はこのように判断を誤らせる。現実を見ずに期待が先走り、自分が思うこと/感じることを現実と思ってしまう。言われてもいないことを聞いてしまうのだ。のちにフランソワもエミリに「愛している」と言うことにはなる。しかし監督はこのシーンでは言わせなかった。それによって、私たちはハッとするのだ。恋がいかに独りよがりなものなのかを知って。

 

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エミリと深い関係になってからも、フランソワは悪びれることなくエミリに向かって「妻を愛している」と言う。最初からそう言っていたし、納得づくで始まった関係だから、彼にとっては隠す必要のない気持ちなのだ。しかも彼曰く、“自分は嘘のつけない男”なのである。だからエミリにも「愛している」と言う。

 

妻を愛している。彼女は僕に喜びをくれる。君と出会って、君を愛する。二人とも僕に喜びをくれる。幸せが重なっていく。

妻と結婚したのは妻と先に出会ったからだ。君と先に出会えば君と結婚していた。君に嘘はつけない。こうなったのは僕のせいじゃない。順番なんだ。

テレーズは植物で、君は自由な動物だ。僕は両方愛している。

 

エミリとのピロートークで、フランソワが嬉々として“愛”と言っているものの正体はなんなのだろうかと、私たちは考えずにはいられない。フランソワはエミリについて性的魅力のことしか語らないし、エミリにもテレーズにも「愛している」「幸せだ」とは言うが、その言葉の中身については何も言わない。彼が愛していると繰り返すほど、私たちはその言葉の空虚さに寒々しくなるのである。

いずれにせよこのシーンでのフランソワは間違いなく“幸福”そうで、それに対してどう思ったらいいのか、私たちは(少なくとも私は)困惑する。

その後のシーンでヴァルダ監督は、散歩中のフランソワとテレーズに非常にアイロニカルな会話をさせている。好きなものは毎日でも食べたい、ポテトフライにチョコレート、そして君は二番目のデザートだ、と言うフランソワに対し、「メニューに変化は必要よ」とテレーズに言わせているのである。

 

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テレーズと一緒に行くのは最後になってしまうピクニックで、フランソワが「最高だ。ここは本当に最高だ。何も考えたくないね」と言うが、これも皮肉といえば皮肉だ。フランソワは最初から(そしておそらく最後まで)何も考えていない。考えていないからこそこんな風に生きられるのだ。もしも何か考えているとしたら自分の幸福のことだけに違いない。

フランソワにとって幸福とはつまり安寧であり、子どもでいられる状態のことだ。あれが好きでこれも好き、と言って誰からも咎められない、食べたいときに食べたいものを食べられる生活である。

「ぼくは本当にとても幸せだ」と言い、あまりに幸福そうなフランソワに、テレーズがその理由を尋ねる。フランソワは“嘘がつけない”から全てを打ち明けてしまう。

 

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僕たち家族はりんご畑にいる。でもその外にもりんごの木はあり、実がなっている… こんな例え話でテレーズはすべてを悟る。

「誰かあなたを愛している人がいるのね、私のように」

フランソワは「君のようにではないよ」と言い、続いてめちゃくちゃな例え話で愛人との関係を続けられるようテレーズを説得しようとする。仕切りに「わかるかい?」と確認しながら。

 

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当然ながら「わからないわ、そんなこと」と言うテレーズに、フランソワは「君がやめて欲しいというなら彼女とは会わないよ、君に幸せでいて欲しいんだ、僕と一緒に」と言いつつ、でも、と続ける。「愛を禁じるのは馬鹿げてるだろ? これまで通り、いやこれまで以上に僕を愛してくれるかい?」

たぶんできると思う、と、テレーズがなんとなく説得されたような形になり、ひとまずこの件はうまく収まったかに見えた。

収まったかには見えたが、よく考えればフランソワの言い分は身勝手極まりなく(しかも変な例え話で煙に巻くような非常に不誠実なやり方だ)、その理不尽さに観ているこちらの腹が立ってくる。一体何を考えてるんだ、と。しかし、繰り返しになるが、彼は何も考えていないのだ。そこが彼のすごいところ/強いところなのである。

何も考えていないからこそ、この後すぐ溺死するテレーズの、その死を一通り悼んだ後、早々に、エミリを新たな妻として迎え(後添いという言葉がこれほどピッタリくる状況はそうない気がする)、テレーズと一緒だった頃と寸分違わぬような生活を続けることができるのだ。

残念ながら本作のテレーズは、死を持ってしても物語を動かすことができなかったのかもしれない。何も考えていない者を前にしたテレーズは無力な存在だったのだ。

 

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何も考えていない者は、いとも簡単に幸福を感じることができる。フランソワは幸福だ。昨日も今日も、そしておそらく明日も。

アニエス・ヴァルダが本作で見せてくれる身も蓋もない現実によって、私たちは「幸福」の意味を改めて問い直すことになるだろう。



(かなり私的な)スケーターの世界について

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ドラマや映画そのものではないけれど、これまでに観た映画と関連する話題について少し書こうと思う。スケートボードの世界の話だ。

東京オリンピックは、セレモニーも競技も何一つ見ていないし結果もほとんど知らないが、今回正式種目になったスケートボード競技で日本人選手が活躍したことはネットニュースで見た。堀米雄斗選手である。

自分ではスケートをしないし(というかできない。もっとずっと若い頃にできるようになっておけばよかったと常々思っている)、競技の情報を追いかけることもないが、スケートボードという遊び(あえてこう言います)と、スケーターたちに関心がある。

それについてはこの記事で少し触れた。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

そういうこともあって、金メダルを獲った堀米雄斗選手についても興味を持ち、ネット上に散見するエピソードをいくつか読んでみた。

全てネット上の情報であるし、それについて真偽のほどを確認してはいないが、人物や境遇がやはり興味深く、時間を忘れてネットサーフィン(この言葉は今でも通用するのだろうか)してしまった。

堀米選手を巡る状況は、上に引いた過去記事で紹介している映画におけるスケーターたちのそれとは、大きく違っている。これは予想通りだ。

堀米選手は、最初は父親であり自身もスケーターである涼太氏に連れられてスケートを始めたそうだ。これは、日本の子どもたちが、たとえばサッカーや空手やピアノやバレエを始めるのと同じような感覚だと思う。それに対し映画の中の彼らは、親に連れられて何かを習い始めたりするような境遇にない。意識的にしろそうでないにしろ、むしろ親から離れた所に居場所を求めるような思いでスケーターたちの世界に入っていく。スケートを始めるというより、スケーターたちの世界に入っていくのだ。

これが実に不思議なことなのだが、一見違って見える“堀米選手のような人たちが属するスケーターの世界”と“スケーター映画(仮にそう名付ける)に見るスケーターの世界”は、分断されているようでいて実はそうではないのではないかという気がしてならない。堀米選手にまつわるエピソードを読んでいて、改めてそのように感じた。そして、それだからこそ私はその世界に惹かれるのかもしれない。

父親の涼太氏は、最初こそ堀米選手にスケートを教えたが、その成長につれて指導からは手を引いている。その後堀米選手は国内のプロ選手の手に委ねられた。この父親の引き際は見事だ。これは涼太氏個人のキャラクターによるのかもしれないが、私はここにスケーターの世界に通底する世界観のようなものを感じる。それは年齢や境遇を越えたフレンドリーな繋がり、ブラザーフッドシスターフッドのようなものである。

親や教師といった固定的な教育者から固定的な方法で学ぶのでなく、単に上手な人から学ぶ。上手な人は学びたがっている人に教えてあげる。あるいは技を見せてあげたり、ただ一緒に過ごすことで学びをもたらす。そこにはブラザーフッドシスターフッドの根底にある“ただの親切心”みたいなものがまずあって、人と人との繋がり合いの中の一つの形として学びというものがある、というような気がするのだ。これは他の、たとえば(日本の)野球などとは全く違った世界である。

堀米選手は、高校卒業とともに本格的にアメリカに拠点を移したが、高校一年生の時に一度留学している。その際、ロサンゼルスに住むフィルマー(スケーターの映像撮影者)鷲見知彦氏にInstagram経由で連絡を取り、数ヶ月泊めてもらった、というエピソードも、私が持つ世界観のイメージを強化する。フィルマーも含むスケーターたちの世界には様々な垣根が存在しない(か、あっても低い)のだ。

ちなみに鷲見氏の作品の一つがこちら。

 


www.youtube.com

 

年齢、境遇どころか国や民族といった隔たりすらスケーターの世界にはない。ただそれぞれのスタイルを持ったスケーターが存在するだけだ。だから複雑な手続きなしに繋がり合える。そして、そういうフラットな関係だから互いにリスペクトしあえるのである。

もしかしたら私は彼らの世界を理想化しすぎているかもしれない。外側から、遠くから眺めているだけに過ぎないから、間違った認識をしていてもおかしくないとは思う。

私は他者と、年齢や境遇、国籍や民族、性別や立場などに関わらず、個人対個人のフラットな関係を築きたいと常々思っていて(というか、そういう風にしか他者を見ることができない。肉親に対してすらそうだ)、それが簡単にできない社会は疲れるし生きにくいと思っているので、スケーターたちの世界に勝手に理想を見てしまっているのかもしれない。

少なくとも“日本の普通の会社員(私のことだ)が生きているような世界”よりは理想に近い世界にどうしても見えてしまう。そしてあの“特別な乗り物”に乗れない自分を恨めしく思うのである。

堀米選手は、ボードに乗る以外にトレーニングはしないそうである。また、スケートについて、競技と遊びでは遊びの感覚の方が大きいと言っていた。この二点を知って、ますます好感を持った。全く正しい。そのまま続けて行って欲しいと思う。

そして、スケートボードがオリンピック競技になり、コンテストが試合となることで、スケーターたちの世界が変な風に変わってしまわないことを切に願っている。

 

名もなき人々へ 『名もなき歌』

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『名もなき歌』

2019年製作/97分/ペルー・フランス・アメリカ合作

原題:Cancion sin nombre
配給:シマフィルム、アーク・フィルムズ、インターフィルム
監督:メリーナ・レオン
製作:インティ・ブリオネス、メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
脚本:メリーナ・レオン、マイケル・J・ホワイト
撮影:インティ・ブリオネス
美術:ジゼラ・ラミレス
編集:メリーナ・レオン、マヌエル・バウアー、アントリン・プリエト
音楽:パウチ・ササキ
出演:パメラ・メンドーサ・アルピ、トミー・パラッガ、スぺルシオロハス、マイコル・エルナンデス
公式サイト:
映画『名もなき歌』公式サイト

 

あらすじ

1988年、政情不安に揺れる南米ペルー。貧しい生活を送る先住民の女性、20才のヘオルヒナは、妊婦に無償医療を提供する財団の存在を知り、首都リマの小さなクリニックを受診する。数日後、陣痛が始まり、再度クリニックを訪れたへオルヒナは、無事女児を出産。しかし、その手に一度も我が子を抱くこともなく院外へ閉め出され、娘は何者かに奪い去られてしまう。夫と共に警察や裁判所に訴え出るが、有権者番号を持たない夫婦は取り合ってもらえない。新聞社に押しかけ、泣きながら窮状を訴えるヘオルヒナから事情を聞いた記者ペドロは、事件を追って、権力の背後に見え隠れする国際的な乳児売買組織の闇へと足を踏み入れるが―。(公式サイトより)

  

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南米で先住民の女性を描いたモノクロ作品というと、アルフォンソ・キュアロン監督の『ROMA』(2018)が記憶に新しい。客観的なカメラで政治的混乱に揺れる1970年から1971年のメキシコを静かに描いた作品だ。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

ペルー先住民の暮らしの閉塞感

『ROMA』の主人公の先住民女性クレオは、街中に住む裕福な白人一家の家政婦だったので、伝統的な文化の類はほとんど登場しなかった。本作『名もなき歌』の主人公ヘオルヒナは、同じ先住民で民族舞踊の踊り手である夫レオと丘の中腹に建つ簡素な家に住み、先住民のコミュニティの中で暮らしている。そのため作中に民族楽器の演奏と歌やダンスの場面が登場する。本作の方が『ROMA』より20年近く新しい時代設定だが、逆のような印象を受けるのは、洗練された都会の文化を感じさせる場面があまりないからかもしれない。

 

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ちなみに本作は、1980年代に実際に起こった国際的な乳児売買事件を元に作られたフィクションである。メリーナ・レオン監督は、当時この事件を調査していた新聞記者だった父親からこの話を聞き、映画を作るに至ったとのことだ。

 

本作に特徴的なこととして、モノクロであることの他に画面サイズがあげられる。4:3のスタンダードサイズをあえて採用したことにより、作品世界の閉塞感が画面から伝わってくる。ヘオルヒナが暮らす広々とした丘でさえ、画面から受ける印象に開放感はあまり感じられない。また、スチルではわからないが、上映時にうっすらと画面の輪郭がぼやけているのは、敢えてそうしていて、当時のテレビ画面を模しているのだそうだ。

 

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女性であることの不利益と様々な社会問題

民族やジェンダーによる差別、同性愛への偏見、貧困、人身売買、インフレ、官僚や政治家の腐敗、テロリズムなど、本作で扱われる問題は数多いが、全編を通して台詞は最小限で、出来事と清冽な映像の示唆によって静かに語られる。『ROMA』でもそうだったが、本作でも、この国の歴史や政情を知らないとわからない部分もあるだろう。しかしそういった部分を除いても普遍的な問題については十分理解できる。

 

『ROMA』のクレオは、授かった子どもを産むことができなかった。本作のヘオルヒナは出産直後に子どもを奪われている。現れている現象は違うが、ことの本質は同じだ。ヘオルヒナもクレオ原住民であることと女性であることで、二重に虐げられている。二人とも他者から人間性を奪われているのである。

 

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ヘオルヒナの夫レオが、貧しさから仕事を求めるあまり踏み出してしまう方向は、クレオの恋人が走った方向とは逆だが、これもまた本質的には同じだ。経済的に逼迫していると、行動の選択肢が狭められる。やらずもがなのことまでやりかねないのだ。名目はどうあれ、二人の行動は暴力に他ならないが、二人には他にどのような選択肢があっただろう。(これは形式疑問文ではなく本当の疑問文だ)

 

この二作は、扱うエピソードも違うし表現方法も違うが、テーマの根本はほぼ同じなのだと思う。

 

メキシコやペルーで起こっていた(/いる)、これらの社会問題は日本には関係ないだろうか。

江戸時代には子どもが売り買いされていた日本でも、流石に現代では、官僚や政治家まで関与して生まれたての子どもたちを海外へ売るというようなことは起こらないだろう(確信はないが)。しかし日本で暮らす様々な人々が様々な理由で不当な扱いを受けている例は枚挙にいとまがない。いつ自分がヘオルヒナになってもおかしくないのだということは、頭の隅に置いておいたほうがいい。

 

不当に子を奪われ、(今は)虚しく子守歌を歌うしかないヘオルヒナの幸せを願うなら、自分にできることは何かを考え、行動していくしかない。それがたとえ取るに足らないようなことであっても。




孤独の中で触れ合う魂 『少年の君』

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『少年の君』

2019年製作/135分/G/中国・香港合作
原題:Better Days
配給:クロックワークス
監督:デレク・ツァン
脚本:ラム・ウィンサム リー・ユアン シュー・イーメン
撮影:ユー・ジンピン
出演:チョウ・ドンユィ、イー・ヤンチェンシー
公式サイト:https://klockworx-asia.com/betterdays/

 

あらすじ

進学校に通う成績優秀な高校3年生のチェン・ニェン。全国統一大学入試(=高考)を控え殺伐とする校内で、ひたすら参考書に向かい息を潜め卒業までの日々をやり過ごしていた。そんな中、同級生の女子生徒がクラスメイトのいじめを苦に、校舎から飛び降り自らの命を絶ってしまう。少女の死体に無遠慮に向けられる生徒たちのスマホのレンズ、その異様な光景に耐えきれなくなったチェン・ニェンは、遺体にそっと自分の上着をかけてやる。しかし、そのことをきっかけに激しいいじめの矛先はチェン・ニェンへと向かうことに。彼女の学費のためと犯罪スレスレの商売に手を出している母親以外に身寄りはなく、頼る者もないチェン・ニェン。同級生たちの悪意が日増しに激しくなる中、下校途中の彼女は集団暴行を受けている少年を目撃し、とっさの判断で彼シャオベイを窮地から救う。辛く孤独な日々を送る優等生の少女と、ストリートに生きるしかなかった不良少年。二人の孤独な魂は、いつしか互いに引き合ってゆくのだが・・・。(公式サイトより)

 

複雑な構造の街で起こる、いじめに端を発した物語

映画館で予告を見て、まずその色彩に惹かれた。
これは、いじめという名の苛烈な暴力が、複雑な構造の街の淡い光の中で展開される物語だ。
この街(重慶だそうだ)を舞台に選んだことは、本作の成功に間違いなく一役買っている。重層的な構造、明るさと暗さといった街の複雑な顔が、作品を重層的にし深い世界観を構築する大きな要素となっている。

主人公の少女チェン・ニェン(チョウ・ドンユイ)の家から学校までの道のりは、坂道や階段やエスカレーターでアップダウンする。道の高低差が高い塀のようになっていたり、低い位置から見上げた道のさらに上に高層ビルが立ち並んでいたり、そうかと思えば鬱蒼とした並木道があったり、これがまるで、例えば主人公が暗い森を抜けてどこかへ行くファンタジーのような、異世界への道のりであるかのように感じられる。いつどこから何が出て来るかわからない不穏さが漂っているのだ。この場合、異世界なのは学校なのかチェン・ニェンの家なのか、あるいは両方なのか、それはわからない。

異世界を行き来するチェン・ニェンは、クラスメイトの自殺事件をきっかけに、学校世界で権力を持つ金持ちの女子生徒たちにとっての“異物”となり、激しいいじめ(というよりはっきり暴力といったほうがいい)を受けるようになる。

 

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本来なら砦となるはずの自分の家に、守ってくれるはずの母はいない。“悪気なく”危ない商売をして追われる身の母は、チェン・ニェンにとってただ一人の肉親だが、“悪気なく”チェン・ニェンを置いてどこかへ行ってしまっている。時折連絡は来るし、言葉かけは優しい。この母には「子を遺棄している」自覚は全くない。

どこにも居場所のないチェン・ニェンにとって唯一の希望は、全国統一大学入試(=高考)を好成績で突破して北京大学へ行くことだ。現在、どれほど過酷な状況にあろうとも、勉強だけはしなければならない。どんな仕打ちをされても学校へは行くのだ。

 

出会ってしまった孤独な魂

ある日、シャオベイ(イー・ヤンチェンシー)が街の不良たちからリンチされているところに通りかかったチェン・ニェンは、その光景から目をそらすことが出来なかった。そこに自分を見たのかもしれないし、そうでないかもしれないが、とにかく立ちすくんでしまう。
不良どもはチェン・ニェンに、彼らがいかにも言いそうなことを言う。

「こいつが好きなのか。それならキスしてみろよ」

 

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この事件をきっかけに、二人は徐々に近づいて行く。シャオベイはチェン・ニェンが登下校時に暴力を受けないよう、距離を取りつつ(ここが痺れるところだ)見守り、チェン・ニェンはシャオベイの家に立ち寄るようになる。

シャオベイの家は、道路か橋のようなところの下に、嵌め込むような形で作られた隠れ家のような家だ。家族はいないし、それについてはほとんど語られない。木の上ではないけれども、寓話的なビジュアルがツリーハウスを想起させる。実際チェン・ニェンにとってはある種の避難場所だったから、ツリーハウスのような役割を果たしていたと言っていいのかもしれない。

二人が手を繋いで歩くことはない。でもある日バイクに二人乗りをした時、二人の顔には自然と柔らかな笑みが溢れる。幸せとはこのように儚く刹那的なものであることもあるのだ。

 

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胸に刺さるキス

チェン・ニェンにとってシャオベイが(そして逆も)唯一の居場所となり始めたとき、衝撃的な事件が起こる。その事件の渦中で、二人は二度目のキスをする。

作中の二度のキスは両方とも切ない。どちらも作られた状況の中でのキスだ。一度目はシャオベイを救うため、二度目はチェン・ニェンを救うためのものだった。
二度目のキスは、個人的にはこれまで映画を見てきた中で一番といっていいくらい切ない。表面的には、愛とは真逆の状況を作品世界の中で作り上げるために行われる。しかし観客の私たちは、その奥底で二人が確実に愛を通わせたことを感じてしまうのだ。

いじめや過酷な大学受験、ストリートチルドレンといった社会問題を扱った本作は、それら自体が作品のテーマともなりうるものだ。しかし本作はなによりもまず、切ないラブストーリーだと思う。
チョウ・ドンユイとイー・ヤンチェンシーは、それぞれチェン・ニェンとシャオベイの孤独と切ない思いを強く美しく演じきっている。

終わりの方で、冒頭につながる「現在」を描いているが、この部分はなくても良かったかもしれない。なければ二度目のキスシーンの痛切さが増す。しかし、そうなると観客は処理しきれない感情を抱えて家に帰らなければならなくなるだろう。だからあって良かったのかもしれない。ここは好みが別れるところだと思う。

 

ところで、本編終了後の、現在の中国におけるいじめ撲滅への取り組み等のインフォメーション的な部分は、作品には全く必要ないことは明白だ。しかし政治的な事情で付けざるを得なかったのかもしれない。ここは目を瞑るしかないだろう。

デイヴィッド・バーンが見せるユートピアの可能性 『アメリカン・ユートピア』

 

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アメリカン・ユートピア』(2020年)

監督:スパイク・リー

製作:デイヴィッド・バーン、スパイク・リー

出演:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスターヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ギアーモ、ティム・カイパー、テンデイ・クーンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サン・フアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世

 

衣装のスーツが持つ意味

ストップ・メイキング・センス』(1984年)の頃、ディヴィッド・バーンはスーツで擬装していた。スーツは“社会的にマトモな大人”の象徴であり、だからライト・グレーのあのビッグスーツは“社会的にマトモな大人”のコスプレ用スーツだったのだ。

彼は本当はもちろんマトモな大人だったから(マトモでないのはむしろ社会の方だ)それは一種のアイロニーであり韜晦だった。

 

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アメリカン・ユートピア』におけるスーツは、あのビッグスーツとは明らかに違う。ディヴィッド・バーンは、ここでは自身がマトモな大人であることを素直に打ち出し、スーツが持つユニフォーム的な面を肯定的に表現している。日本人がよく揶揄される「みんな同じ」スーツが、この舞台では、出自の違う人々を緩やかに纏めるパワーを持つ。その様子が観客の目に全体主義的に映らないのは、それぞれがことなる風貌で異なる楽器を持ち(または持たず)、異なる動きで全体を形作っているからだ。

 

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デイヴィッド・バーンの一貫性と変化

本作においてまず驚くべきは、デイヴィッド・バーンの変わらなさだ。

彼がこれまで一貫して表現してきたことは、現実がどんなにイカレているか直視しろ、正気になれ、ということで、活動の初期から40年以上経つ今もそれは変わっていないと、本作を観て実感した。そして全く衰えない歌唱の力にも驚く。正直に言うと、以前は彼の歌がうまいとは思っていなかった(“味のある”ボーカルとは思っていたが)。実際うまいというより、歌に力があるというほうが真実に近い気がする。本作の撮影当時67歳。変わらず力のある歌だ。

 

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もちろん変化している部分もある。

ストップ・メイキング・センス』の頃は、彼の風貌やアルバムのクールな印象とは裏腹に、ライブはエネルギッシュでパワフルで、アグレッシブと言ってもいいようなステージングだった。本作では、演奏は幾分ソフトになり(楽器数が少ないせいもあるかもしれない)、舞台装置はミニマルで、ステージングも洗練されている。また、観客とのやり取りもあり、終始穏やかだ。むしろこちらの方が、もともと彼が醸し出しているイメージに近い気がするのは私だけだろうか。

 

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洗練されたステージング

穏やかだからといってショー自体が刺激的でないというわけではない。ミュージシャンたちはみなパフォーマーとしてのスキルが高く、楽器演奏のみならず全員歌が歌えるし、動ける。スパイク・リーは彼らの素晴らしいフォーメーションを、ステージ頭上から、背後から、中央から、あるいはステージ上を動きながら撮影し、ショーの観客が見ることのできない部分を私たち映画の観客に見せてくれている。

 

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ストップ・メイキング・センス』は、観ているだけで熱くなるほどエネルギーに満ち溢れていて、踊りでもしないことには放熱しようがない作品だった。『アメリカン・ユートピア』も、もちろん踊りたくなる。踊りたくはなるが、しかし観ていることもできる。観ることによる参加が可能な作品になっていて、それこそが洗練であると思う。

 

ユートピアの可能性 

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持って歩けるものだけというシンプルな楽器構成は、彼らがそのままどこへでも行けることを表すかのようだ。そのような軽やかさや柔軟性をすべての人が持つならば、この世界はもう少しマシなものになるのではないだろうか。

 

本作のタイトルにあるUTOPIAは上下逆さになっていて、それを本当のUTOPIAにするには、文字をひっくり返すか自分が反対側へ行ってそこから見るしかない。これは、まずは凝り固まった世界の見方を変えることから始めようというメッセージなのかもしれない。そうすることによってユートピアの可能性が見えてくるのだと。

 


www.youtube.com


#デイヴィッドバーン #スパイクリー #音楽映画 #アメリカンユートピア

『藁にもすがる獣たち』韓国ノワールエンタテインメント

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2020年・韓国

監督:キム・ヨンフン
製作:チャン・ウォンソク
原作:曽根圭介
脚本:キム・ヨンフン
撮影:キム・テソン
編集:ハン・ミヨン
音楽:カン・ネネ
出演:チョン・ドヨンチョン・ウソン、ぺ・ソンウ、ユン・ヨジョン、チョン・マンシク、チン・ギョン

 

 

あらすじ(公式サイトより)

失踪した恋人が残した多額の借金を抱えて金融業者からの取り立てに追われるテヨン、暗い過去を清算して新たな人生を歩もうとするヨンヒ、事業に失敗してアルバイトで必死に生計を立てているジュンマン、借金のために家庭が崩壊したミラン。ある日、ジュンマンが勤め先のロッカーの中に忘れ物のバッグを発見する。その中には10億ウォンもの大金が入っていた。地獄から抜け出すために藁にもすがりたい、欲望に駆られた獣たちの運命は――。果たして最後に笑うのは誰だ!?

 

本作が長編一作目というキム・ヨンフン監督が、タイトルに惹かれて読んだ曽根圭介の原作小説は、当初『あわよくば』というタイトルだったという。単行本化する際に『藁にもすがる獣たち』と改題され、それが監督の目に留まり、映画化されることになったのだから、作品におけるタイトルとは実に重要なものだ。

 

藁にもすがる獣たち (講談社文庫)

藁にもすがる獣たち (講談社文庫)

 

 

実際、本作の登場人物たちはみな、“あわよくば”よりも強いモチベーションで大金獲得に躍起になっており、その姿はまさに“藁にもすがる獣たち”である。

 

10億ウォンの金はどこでどのようにして生まれ、誰を通ってどこへ行き着くのか、そしてその過程で誰が誰をどのように殺し、誰が生き残るのか… 境遇の違う、生活範囲も異なる四人の人物が、金を核にして絡み合い、すれ違う。

 

原作には小説ならではの仕掛けがあるため、映画化は難しいと思っていた原作者も「脚本も手がけられたキム・ヨンフン監督は、その問題を巧みな手法で解決し、原作の構成を生かしつつ、本作をすばらしい娯楽作品に仕立てあげました。お見事です。恐れ入りました」と言うほど見事な脚色で、原作よりもよく整理されている印象を受けた。

人物設定やストーリーにも若干の改変があるが、むしろ納得感があり、特にラストはエンタテインメントとしての一つの正解を見せてくれたのではないだろうか。(逆にこれを好まない人もいるとは思う)

また、音楽が作品世界にマッチしていてとても良かった。

 

私は映画を観てから原作を読んだので、予備知識なく映画を楽しめた。観てから読んだのは、原作者言うところの“小説ならではの仕掛け”が気になったからだ。観てから読むのはなんとなく答え合わせのようになってしまうが、それもまた結構楽しかった。件の仕掛けの部分は、なるほど、そのまま映像化することは難しいシーンだ。

 

余談だが、それで思い出したのが、表紙が好みでジャケ買いした2020年刊行の王谷晶著『ババヤガの夜』というバイオレンスアクション小説だ。映画になったら面白そうと思える作品だが、本作と同種の映像化が難しいシーンを含んでいる。これもひょっとしたらいつか韓国映画となってお目にかかる日が来るだろうか、などと思ってみたりした。(まず、主人公170cm80kg超えで喧嘩が好物の女、新藤依子を演じられる俳優が今の日本にはいない気がする)

 

ババヤガの夜

ババヤガの夜

 

 

本作でジュンマン(ぺ・ソンウ)の母を演じたユン・ヨジョンは、リー・アイザック・チョン監督『ミナリ』(2020)で主人公の妻モニカの母を演じて第93回アカデミー賞助演女優賞を獲得した。役名は奇しくも同じスンジャだ。この名前は同年代の“ハルモニ”のイメージを呼び起こす名前なのかもしれない。

作品としては振れ幅が広いが、役どころとしてはそうでもなく、どちらも“火”がキーになっているのが面白い。単なる偶然なのかもしれないが、年をとったら火には気をつけたほうがいい。

 


#映画感想文 #ノワール

『ヤクザと家族 The Family』ー 不良少年の家族/孤独

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『ヤクザと家族 The Family』(2021)

監督・脚本:藤井道人
企画・製作:河村光庸
撮影:今村圭佑
照明:平山達弥
録音:根本飛鳥
美術:部谷京子
衣装:宮本まさ江
ヘアメイク:橋本申二
編集:古川達馬
音楽:岩代太郎
出演:綾野剛舘ひろし尾野真千子北村有起哉市原隼人磯村勇斗

 

観に行ってからだいぶ時間が経ってしまった。

冒頭の、男が水の中に漂うシーンは、終盤の決定的なシーンであることを、観ている者は後になって知る。

このことから『シシリアン・ゴーストストーリー』(2017)を思い出した。

 

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シシリアン・ゴースト・ストーリー』は実際にあった誘拐事件を基にしたかなりきつい物語で、シシリアンマフィアが絡んでいる。

主人公ジュゼッペは普通に生活している普通の少年だが、マフィアの息子だった。それだけの理由で大人の暴力的ないざこざに巻き込まれたわけだ。

 

時に「子どもは親を選んで生まれてくる」というようなことをいう人がいる。私はそれには頷けない。選べないからこそ子どもが被害者となる様々な悲劇が日々起こっているのではないだろうか。

 

『ヤクザと家族』が“家族の物語”として打ち出しているのは、ヤクザ世界の家族的な繋がりの部分であり、さらには山本賢治綾野剛)が工藤由香(尾野真千子)とともに新しく作ることができたかもしれない家族のことだろう。しかし私がつい注視し想像してしまうのは、賢治の元々の家族の方である。それはほとんど描かれないが、そこが全ての始まりなのだ。

賢治は父親と二人暮らしだったらしく、その父親も亡くすところから話は始まる。命を落とすほどに覚せい剤に溺れていた父親との生活がどのようなものであったか、葬儀の後に賢治が戻った家の中の様子が物語る。他にくどくどしい説明はいらない。ひどく雑然とした部屋の中で、着ていた服のまま横になる賢治の姿が、胸を刺してくる。 

19歳の賢治は、尖っていると同時にひどく傷ついていて、いや傷ついているからこそ尖っていて、今その時だけを生きている。保護されるべき時期に顧みられることなく育ち、孤独の恐ろしさを知るがゆえにそこから目をそらすように、「今」を繋げて疾走している。

序盤の、薬の売人からかっぱらいをして追われるシーンは、賢治の生き方の疾走感をそのまま映し出している。手持ちカメラで撮られる地方都市の寂れた街並みは、地方都市を知り今はそこを出ている(私のような)者に、ある種の郷愁と後ろめたさのようなものを呼び起こす。

 

『ヤクザと家族』は“ヤクザの話”であり、“家族の話”であるが、それと同時に“地方都市の話”でもあるのではないだろうか。これは新宿歌舞伎町のヤクザの話ではないのだ。

 

賢治のように親から遺棄され“不良少年”となった子どもたちが、家族的なものを求めてヤクザの世界に入るというのはよく聞く話だが、都会には、特に現代では、それに変わる何らかの“居場所”があり、ヤクザでない生き方を選ぶこともできる。むしろ“ワル”であってもヤクザになる方が簡単ではないだろう。

地方都市においては、“不良少年”たちの行き着く先がヤクザであるというのが、ごく自然にもっとも辿りやすい道のりであるように思える。それは他のどの“就職”においても、都会より地方の方が選択肢が少ないのと同様だ。リクルートする側される側、どちらにとってもことはシンプルになる。

選ぶ選ばないで言えば、もちろん地方都市であっても、ヤクザを選ばないこともできるだろうが、選択肢は少ないうえ、そちらの世界への誘惑も極く身近に存在するし、人は安易な方、心地よい方(あるいはより辛くない方)を選ぶものである。

そういう意味で本作は撮影地の選定が素晴らしいと思う。都会でなく地方都市であるのが、また、時代設定が現在ではなく20年ほど前というのも、この物語の発端としてふさわしい。もしもこれが現在で、あるいは舞台が都会であったなら、賢治はヤクザではなく、木村翼(磯村勇斗)のように半グレになっていたかもしれないからだ。

 

藤井監督の前作『新聞記者』(2019)が報道を巡る現在を描き出したように、本作は、時代を1999年、2005年、2019年と三章に分け、それぞれの時代のヤクザを巡る現在を、地方都市の衰退を背景に置きながら描いている。綾野剛は、山本賢治の19歳、25歳、39歳をしっかり演じ分けた。その賢治を受け入れ、後に離れることになる、強くて弱い由香には尾野真千子が適役だと思う。

 

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賢治が行き着いた先は、現段階、つまり今の社会の中では、そうなる以外にない、というところなのかもしれない。本作とはテーマの主軸が異なるが、西川美和監督『すばらしき世界』(2021)でも、やはりヤクザを辞めた人物が、状況は違うにしても同じ結末を迎えている。

ここから先をどうするのか、それを考えるのは私たち自身ということになるだろう。


#ヤクザと家族 #綾野剛 #尾野真千子