WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

デイヴィッド・バーンが見せるユートピアの可能性 『アメリカン・ユートピア』

 

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アメリカン・ユートピア』(2020年)

監督:スパイク・リー

製作:デイヴィッド・バーン、スパイク・リー

出演:デイヴィッド・バーン、ジャクリーン・アセヴェド、グスターヴォ・ディ・ダルヴァ、ダニエル・フリードマン、クリス・ギアーモ、ティム・カイパー、テンデイ・クーンバ、カール・マンスフィールド、マウロ・レフォスコ、ステファン・サン・フアン、アンジー・スワン、ボビー・ウーテン・3世

 

衣装のスーツが持つ意味

ストップ・メイキング・センス』(1984年)の頃、ディヴィッド・バーンはスーツで擬装していた。スーツは“社会的にマトモな大人”の象徴であり、だからライト・グレーのあのビッグスーツは“社会的にマトモな大人”のコスプレ用スーツだったのだ。

彼は本当はもちろんマトモな大人だったから(マトモでないのはむしろ社会の方だ)それは一種のアイロニーであり韜晦だった。

 

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アメリカン・ユートピア』におけるスーツは、あのビッグスーツとは明らかに違う。ディヴィッド・バーンは、ここでは自身がマトモな大人であることを素直に打ち出し、スーツが持つユニフォーム的な面を肯定的に表現している。日本人がよく揶揄される「みんな同じ」スーツが、この舞台では、出自の違う人々を緩やかに纏めるパワーを持つ。その様子が観客の目に全体主義的に映らないのは、それぞれがことなる風貌で異なる楽器を持ち(または持たず)、異なる動きで全体を形作っているからだ。

 

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デイヴィッド・バーンの一貫性と変化

本作においてまず驚くべきは、デイヴィッド・バーンの変わらなさだ。

彼がこれまで一貫して表現してきたことは、現実がどんなにイカレているか直視しろ、正気になれ、ということで、活動の初期から40年以上経つ今もそれは変わっていないと、本作を観て実感した。そして全く衰えない歌唱の力にも驚く。正直に言うと、以前は彼の歌がうまいとは思っていなかった(“味のある”ボーカルとは思っていたが)。実際うまいというより、歌に力があるというほうが真実に近い気がする。本作の撮影当時67歳。変わらず力のある歌だ。

 

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もちろん変化している部分もある。

ストップ・メイキング・センス』の頃は、彼の風貌やアルバムのクールな印象とは裏腹に、ライブはエネルギッシュでパワフルで、アグレッシブと言ってもいいようなステージングだった。本作では、演奏は幾分ソフトになり(楽器数が少ないせいもあるかもしれない)、舞台装置はミニマルで、ステージングも洗練されている。また、観客とのやり取りもあり、終始穏やかだ。むしろこちらの方が、もともと彼が醸し出しているイメージに近い気がするのは私だけだろうか。

 

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洗練されたステージング

穏やかだからといってショー自体が刺激的でないというわけではない。ミュージシャンたちはみなパフォーマーとしてのスキルが高く、楽器演奏のみならず全員歌が歌えるし、動ける。スパイク・リーは彼らの素晴らしいフォーメーションを、ステージ頭上から、背後から、中央から、あるいはステージ上を動きながら撮影し、ショーの観客が見ることのできない部分を私たち映画の観客に見せてくれている。

 

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ストップ・メイキング・センス』は、観ているだけで熱くなるほどエネルギーに満ち溢れていて、踊りでもしないことには放熱しようがない作品だった。『アメリカン・ユートピア』も、もちろん踊りたくなる。踊りたくはなるが、しかし観ていることもできる。観ることによる参加が可能な作品になっていて、それこそが洗練であると思う。

 

ユートピアの可能性 

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持って歩けるものだけというシンプルな楽器構成は、彼らがそのままどこへでも行けることを表すかのようだ。そのような軽やかさや柔軟性をすべての人が持つならば、この世界はもう少しマシなものになるのではないだろうか。

 

本作のタイトルにあるUTOPIAは上下逆さになっていて、それを本当のUTOPIAにするには、文字をひっくり返すか自分が反対側へ行ってそこから見るしかない。これは、まずは凝り固まった世界の見方を変えることから始めようというメッセージなのかもしれない。そうすることによってユートピアの可能性が見えてくるのだと。

 


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#デイヴィッドバーン #スパイクリー #音楽映画 #アメリカンユートピア

『藁にもすがる獣たち』韓国ノワールエンタテインメント

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2020年・韓国

監督:キム・ヨンフン
製作:チャン・ウォンソク
原作:曽根圭介
脚本:キム・ヨンフン
撮影:キム・テソン
編集:ハン・ミヨン
音楽:カン・ネネ
出演:チョン・ドヨンチョン・ウソン、ぺ・ソンウ、ユン・ヨジョン、チョン・マンシク、チン・ギョン

 

 

あらすじ(公式サイトより)

失踪した恋人が残した多額の借金を抱えて金融業者からの取り立てに追われるテヨン、暗い過去を清算して新たな人生を歩もうとするヨンヒ、事業に失敗してアルバイトで必死に生計を立てているジュンマン、借金のために家庭が崩壊したミラン。ある日、ジュンマンが勤め先のロッカーの中に忘れ物のバッグを発見する。その中には10億ウォンもの大金が入っていた。地獄から抜け出すために藁にもすがりたい、欲望に駆られた獣たちの運命は――。果たして最後に笑うのは誰だ!?

 

本作が長編一作目というキム・ヨンフン監督が、タイトルに惹かれて読んだ曽根圭介の原作小説は、当初『あわよくば』というタイトルだったという。単行本化する際に『藁にもすがる獣たち』と改題され、それが監督の目に留まり、映画化されることになったのだから、作品におけるタイトルとは実に重要なものだ。

 

藁にもすがる獣たち (講談社文庫)

藁にもすがる獣たち (講談社文庫)

 

 

実際、本作の登場人物たちはみな、“あわよくば”よりも強いモチベーションで大金獲得に躍起になっており、その姿はまさに“藁にもすがる獣たち”である。

 

10億ウォンの金はどこでどのようにして生まれ、誰を通ってどこへ行き着くのか、そしてその過程で誰が誰をどのように殺し、誰が生き残るのか… 境遇の違う、生活範囲も異なる四人の人物が、金を核にして絡み合い、すれ違う。

 

原作には小説ならではの仕掛けがあるため、映画化は難しいと思っていた原作者も「脚本も手がけられたキム・ヨンフン監督は、その問題を巧みな手法で解決し、原作の構成を生かしつつ、本作をすばらしい娯楽作品に仕立てあげました。お見事です。恐れ入りました」と言うほど見事な脚色で、原作よりもよく整理されている印象を受けた。

人物設定やストーリーにも若干の改変があるが、むしろ納得感があり、特にラストはエンタテインメントとしての一つの正解を見せてくれたのではないだろうか。(逆にこれを好まない人もいるとは思う)

また、音楽が作品世界にマッチしていてとても良かった。

 

私は映画を観てから原作を読んだので、予備知識なく映画を楽しめた。観てから読んだのは、原作者言うところの“小説ならではの仕掛け”が気になったからだ。観てから読むのはなんとなく答え合わせのようになってしまうが、それもまた結構楽しかった。件の仕掛けの部分は、なるほど、そのまま映像化することは難しいシーンだ。

 

余談だが、それで思い出したのが、表紙が好みでジャケ買いした2020年刊行の王谷晶著『ババヤガの夜』というバイオレンスアクション小説だ。映画になったら面白そうと思える作品だが、本作と同種の映像化が難しいシーンを含んでいる。これもひょっとしたらいつか韓国映画となってお目にかかる日が来るだろうか、などと思ってみたりした。(まず、主人公170cm80kg超えで喧嘩が好物の女、新藤依子を演じられる俳優が今の日本にはいない気がする)

 

ババヤガの夜

ババヤガの夜

 

 

本作でジュンマン(ぺ・ソンウ)の母を演じたユン・ヨジョンは、リー・アイザック・チョン監督『ミナリ』(2020)で主人公の妻モニカの母を演じて第93回アカデミー賞助演女優賞を獲得した。役名は奇しくも同じスンジャだ。この名前は同年代の“ハルモニ”のイメージを呼び起こす名前なのかもしれない。

作品としては振れ幅が広いが、役どころとしてはそうでもなく、どちらも“火”がキーになっているのが面白い。単なる偶然なのかもしれないが、年をとったら火には気をつけたほうがいい。

 


#映画感想文 #ノワール

『ヤクザと家族 The Family』ー 不良少年の家族/孤独

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『ヤクザと家族 The Family』(2021)

監督・脚本:藤井道人
企画・製作:河村光庸
撮影:今村圭佑
照明:平山達弥
録音:根本飛鳥
美術:部谷京子
衣装:宮本まさ江
ヘアメイク:橋本申二
編集:古川達馬
音楽:岩代太郎
出演:綾野剛舘ひろし尾野真千子北村有起哉市原隼人磯村勇斗

 

観に行ってからだいぶ時間が経ってしまった。

冒頭の、男が水の中に漂うシーンは、終盤の決定的なシーンであることを、観ている者は後になって知る。

このことから『シシリアン・ゴーストストーリー』(2017)を思い出した。

 

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シシリアン・ゴースト・ストーリー』は実際にあった誘拐事件を基にしたかなりきつい物語で、シシリアンマフィアが絡んでいる。

主人公ジュゼッペは普通に生活している普通の少年だが、マフィアの息子だった。それだけの理由で大人の暴力的ないざこざに巻き込まれたわけだ。

 

時に「子どもは親を選んで生まれてくる」というようなことをいう人がいる。私はそれには頷けない。選べないからこそ子どもが被害者となる様々な悲劇が日々起こっているのではないだろうか。

 

『ヤクザと家族』が“家族の物語”として打ち出しているのは、ヤクザ世界の家族的な繋がりの部分であり、さらには山本賢治綾野剛)が工藤由香(尾野真千子)とともに新しく作ることができたかもしれない家族のことだろう。しかし私がつい注視し想像してしまうのは、賢治の元々の家族の方である。それはほとんど描かれないが、そこが全ての始まりなのだ。

賢治は父親と二人暮らしだったらしく、その父親も亡くすところから話は始まる。命を落とすほどに覚せい剤に溺れていた父親との生活がどのようなものであったか、葬儀の後に賢治が戻った家の中の様子が物語る。他にくどくどしい説明はいらない。ひどく雑然とした部屋の中で、着ていた服のまま横になる賢治の姿が、胸を刺してくる。 

19歳の賢治は、尖っていると同時にひどく傷ついていて、いや傷ついているからこそ尖っていて、今その時だけを生きている。保護されるべき時期に顧みられることなく育ち、孤独の恐ろしさを知るがゆえにそこから目をそらすように、「今」を繋げて疾走している。

序盤の、薬の売人からかっぱらいをして追われるシーンは、賢治の生き方の疾走感をそのまま映し出している。手持ちカメラで撮られる地方都市の寂れた街並みは、地方都市を知り今はそこを出ている(私のような)者に、ある種の郷愁と後ろめたさのようなものを呼び起こす。

 

『ヤクザと家族』は“ヤクザの話”であり、“家族の話”であるが、それと同時に“地方都市の話”でもあるのではないだろうか。これは新宿歌舞伎町のヤクザの話ではないのだ。

 

賢治のように親から遺棄され“不良少年”となった子どもたちが、家族的なものを求めてヤクザの世界に入るというのはよく聞く話だが、都会には、特に現代では、それに変わる何らかの“居場所”があり、ヤクザでない生き方を選ぶこともできる。むしろ“ワル”であってもヤクザになる方が簡単ではないだろう。

地方都市においては、“不良少年”たちの行き着く先がヤクザであるというのが、ごく自然にもっとも辿りやすい道のりであるように思える。それは他のどの“就職”においても、都会より地方の方が選択肢が少ないのと同様だ。リクルートする側される側、どちらにとってもことはシンプルになる。

選ぶ選ばないで言えば、もちろん地方都市であっても、ヤクザを選ばないこともできるだろうが、選択肢は少ないうえ、そちらの世界への誘惑も極く身近に存在するし、人は安易な方、心地よい方(あるいはより辛くない方)を選ぶものである。

そういう意味で本作は撮影地の選定が素晴らしいと思う。都会でなく地方都市であるのが、また、時代設定が現在ではなく20年ほど前というのも、この物語の発端としてふさわしい。もしもこれが現在で、あるいは舞台が都会であったなら、賢治はヤクザではなく、木村翼(磯村勇斗)のように半グレになっていたかもしれないからだ。

 

藤井監督の前作『新聞記者』(2019)が報道を巡る現在を描き出したように、本作は、時代を1999年、2005年、2019年と三章に分け、それぞれの時代のヤクザを巡る現在を、地方都市の衰退を背景に置きながら描いている。綾野剛は、山本賢治の19歳、25歳、39歳をしっかり演じ分けた。その賢治を受け入れ、後に離れることになる、強くて弱い由香には尾野真千子が適役だと思う。

 

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賢治が行き着いた先は、現段階、つまり今の社会の中では、そうなる以外にない、というところなのかもしれない。本作とはテーマの主軸が異なるが、西川美和監督『すばらしき世界』(2021)でも、やはりヤクザを辞めた人物が、状況は違うにしても同じ結末を迎えている。

ここから先をどうするのか、それを考えるのは私たち自身ということになるだろう。


#ヤクザと家族 #綾野剛 #尾野真千子

 



『JUNK HEAD』ー 生きている人形たち

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監督・原案・キャラクターデザイン・編集・撮影・照明・音楽・

絵コンテ・造形・アニメーター・効果音・VFX・声優・etc:

堀貴秀

 

gaga.ne.jp

 

文楽が好きで劇場に観に行っていた時期がある。

同じ伝統芸能でも能や歌舞伎にはさほど惹かれず、また観たいと思うのは文楽だけだった。観る演目はほとんど世話物、ことに心中物ばかり。人形は、何と言っても死ぬ場面が素晴らしいのだ。
そもそも生きていない人形を死なせる技術、死なせることによって「確かに生きていた」と思わせる、感じさせる技術に心を奪われ、果ては「生きているとはどういうことなのだろう」「生きている者が持つ感情とその表出とはなんなのだろう」と考えさせられたものだった。この疑問にはまだはっきりとした答えが出ていない。

生きていないはずの人形に感情があるように見えるのはなぜなのか。

青年団主宰の平田オリザが、ロボット演劇『働く私』を作ったときに語っていた言葉を思い出す。
人間には内面というものがあって、それを言葉などで表出させようというのが近代演劇の考え方だが、そうではなくて、表出の方が先にあって、そこに私たちは心を感じるのではないかと思う、というような話だった。
ある角度やある速さである動きをする、あるいは動かない、ある間で言葉を発する、あるいは黙る。そこに「心」があってもなくても、見る者が「心」を感じ取ってしまう動きや間がある。そういう動きや間を作り出すことが演出ということになるだろう。

『JUNK HEAD』の人形たちは、その個性的な造形の愛らしさもさることながら、明らかに人形なのに生きているとしか思えないほど表現豊かに動き(実際には動かされているわけだし、そのことをわかってもいるのだが)、ともするとその素晴らしさに気づけないほど自然である。
また、ほとんどのキャラクターが、口ほどにものを言うはずの眼を持たないにもかかわらず、1秒24コマの的確なアングルやショットによって見事に感情を表している。
パンフレットを読んだところ、堀貴秀監督は過去にマリオネットの製作もしていたそうなので、マリオネットを使うこともやっていただろうと思う。人形の生かし方を知っている人なのだ。

ストーリーは、核によって生態系が崩壊し地上は汚染されたため地下が人類の生活圏となる、遺伝子操作で労働力となる生命体をクローニングする、クローンが反体制を組織する、未知のウィルスによる人類存続の危機… などなど、パンフレットを読むと細かい設定があるが、大筋はディストピアでの冒険譚である。中盤に少し違う展開があるともっと良かったのではないかと思うが、人形やセットの造形を見るだけでも充分と思わせる作品だ。何よりスチームパンクな世界観が自分の好みで、できることならバルブ村の真ん中に立ってみたいが、もうあの世界はどこにも存在しない。映画の中以外には。(パンフレットに見開きで写真が載っているがいくらでも眺めていられる。バルブ村のセットは製作に半年を要したとのこと)

本作のエンドロールは凄まじいことになっている。

4年かけて一人で作った30分の短編を長編にする際に数人のスタッフが加わったとのことだが、そもそもは監督一人で始めたため、クレジットの大部分が「堀貴秀」で埋まっている。文楽で言うなら、人形のかしらもかつらも衣装も小道具も舞台も一人で作り、かつ、照明も太夫も三味線も人形も一人でやるようなものだ。映画の場合、それをカメラに収めて編集するという作業も加わる。その創作意欲と実行力には感嘆するしかないし、堀監督には褒め言葉としてクレイジーという言葉を贈りたい。



#junkhead #ディストピア #ストップモーションアニメ #sf

『写真の女』ー とりあえず、踊ろう

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脚本・監督:串田壮史

出演:永井秀樹、大滝樹、猪股俊明、鯉沼トキ

 

公式サイト:https://womanofthephoto.com

 

(以下、内容に触れています)

 

常に白いスリーピースを身につけ、一言も発しない男、械は、写真館を営んでいる。古めかしい写真館の佇まいとは裏腹に、写真をスキャンしてパソコンに取り込み、依頼通りにサクサクと修正したりしている。そして17時になると店を締め、白いタオルを持って銭湯へ行く。一人暮らしの家にはカマキリがいる。子どもの頃からの昆虫趣味が今でも続いているのだ。

ある日、昆虫写真の撮影に訪れた林の中で、どこかから落ちてきて木に引っかかった女を発見し、行きがかり上、家に連れて帰る。女は胸元に大きな傷を負っていた。

女は今日子といい、バレエでステージに立っていた過去の栄光が忘れられず、日々SNSに写真を投稿し、不特定多数から賞賛を得ようと躍起になっていた。

怪我を負った後は、械に撮影してもらい、傷口を修正してもらった写真を投稿し始める。しかし、フォロワーや“いいね”は減る一方。ある日「ありのままの自分」として、傷の生々しさもそのままの、無修正の写真を投稿したところ、思いの外の賞賛を得る。歓喜する今日子だったが、今度は「では、傷が治ったらどうなるのだろう」という不安に駆られ、、、



何を隠そう私は傷フェチだ。正確にいうと傷“跡”フェチなので、生々しい傷はあまり得意ではない。なのでホラー映画もあまり得意ではないが、知らずにみた本作は紛れもなくホラー映画だった。と言っても、殺人鬼やゾンビが襲ってきたり幽霊に脅かされたりする類のものではない。

 

傷(瑕疵)とは修正されるべきもの、隠すべきものというSNS世界/ヴィジュアル世界の通念があり、多くの人が日々写真の修正に励んでいる。風景から邪魔なものを消すのを始め、顔や姿の加工、場合によっては写真だけにとどまらず、実物を外科手術で変えてしまうことすら今や珍しいことではない。

しかしSNSの世界には、逆に傷こそが個性でありむしろ誇示すべきもの、という反対概念も同時に存在する。個性こそが賞賛される現代においては、傷を晒すこともまた賞賛の対象となるのだ。

人々からの賞賛を求めSNSにアップする写真を、美しく修正された“理想的な私”から“ありのままの私”に変え、さらに“ありのままの私”をありのままたらんとするために、胸の傷を維持しようとする今日子の行為は、美しさを求めて実物を外科手術で変えてしまう行為と表裏一体をなすものだ。

 

胸の傷は心の傷の外在化であり、械がタブレットとペンでパソコン上の傷を修正するシャカシャカシャカという音とシンクロして、自らの傷を指でグリグリグリと擦って拡げる行為は、それ自体が音のない悲痛な叫びである。その叫びは、誰もが一度は経験したことがあるであろう、身体上の傷の生々しい痛みの感覚を、観ている私たちの内に呼び覚ます。その時私たちは今日子の痛みを内在化している。そしてそれこそがホラーなのだ。

 

画面構成、場面転換、音響(アフレコ)など、計算され組み立てられた作品で、ホラーでありながらコメディ要素もある。会話の間や械の表情、衣装、カマキリなど、コメディというかなんというか“いたずらっぽさ”のようなテイストだ。

そのせいか、鑑賞しながら大林宣彦監督の『HOUSE』を思い出した。本作は全編を通して音響が際立っているが(意図的にそう作られている)、とくに咀嚼音が出る場面で、南田洋子が食事中にニコッと笑って口を開くと目玉が見える、という『HOUSE』の一場面が思い浮かんだ。『HOUSE』は封切り時に映画館で観て以来、観ていないので、実際その場面でどんな音がしていたかは思い出せない。

 

写真を撮る/に撮られる(を撮らせる)という行為は、二人でダンスを踊る行為に似ている。最後には実際に今日子が踊りだす。それは、美しく賞賛される存在である(あった)自分、傷つき出口を見いだせない自分、どれが自分なのか、一体自分とは何なのか、本当の自分はどこにいるのか、そういうことはとりあえず傍に置いて(ついでにSNSも)、リアルに今ここで踊ったみたらどうか、という提示のように思える。

井上陽水の「夢の中へ」で歌われるように、まだまだ探す気ですか、それより僕と踊りませんか、探すのをやめた時、見つかる事もよくある話と。

『行きどまりの世界に生まれて』

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2018年・アメリ

原題:Minding the Gap

監督:ビン・リュー

製作:ダイアン・クォン、ビン・リュー

出演:キアー・ジョンソン、ザック・マリガン、ビン・リュー、ニナ・ボーグレン、ケント・アバナシー、モンユエ・ボーレン



スケーターについての映画は本作を含めて三作観ている。

最初に観たのが『スケート・キッチン』(2016・アメリカ)

http://skatekitchen.jp

これはニューヨークを舞台にした、女の子の話。

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次が『mid 90's ミッドナインティーズ』(2018・アメリカ)

http://www.transformer.co.jp/m/mid90s/

こちらはロサンゼルスを舞台にした、男の子の話。

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二作ともフィクションではあるけれども、思春期のスケーターたちのリアリティを自然に写し撮っていて、胸に何かを残す良い作品だった(これらについてもいずれ記事にするかも)。

 

本作『行き止まりの世界に生まれて』はドキュメンタリーであり、舞台は上記二作の間(真ん中よりは東寄りだけれども)のような、イリノイ州ロックフォード。「ラストベルト(錆びついた工業地帯)」と言われる地域だ。公式サイトでもその他宣伝媒体でも、この地域の閉塞性に言及し、そこから逃れようとする若者たちの話であるとしている。

実際本作で、昼間から人通りのない街、車の少ない大通りなどを見る限り、活気のない街であることが感じられる。しかし、ニューヨークとロサンゼルスを舞台にした他の二作と本作に登場するスケーターたちの間には、地域の閉塞性を超えた何か、どの地域にも通じるものがある気がしてならない。

スケーターたちの世界は、地域を問わず現実の社会(=大人)からみるとちょっとした異世界とも言えるのではないだろうか。車やバイクでなく、かと言って足でもない、“特別な乗り物”に乗る者たちだけが入ることのできる世界だ。そこに集う若者たちの胸には共通する思いがあるように思える。

彼らそれぞれの家庭でどんな問題があるのか、あるいは何もないのか、それはわからない。あってもなくても、彼らの心の中にはなんとなく隙間があり、家の中に落ち着くところがないという感覚があるのではないか。そしてそれは多くの思春期の若者に共通する感覚だと思う。それは一種の「寂しさ」と言ってもいい。

本作に登場するキアー、ザック、ビンはそれぞれの事情を抱え、そこから逃れるようにしてストリートへ出た。『スケート・キッチン』のカミーユ、『mid90s ミッドナインティーズ』のスティーヴィーも同様だ。(前者が女の子、後者がローティーン、ということで、本作とはまた違った側面が描かれるため、本作をごらんになった方には、ぜひこの二作もご覧頂きたいと思う)

思春期の若者にとっては、どんな家であってもそれ自体がすでに閉塞的であり、若者とは外へ出ていくものなのだ。

若者は外へ出る、そしてそこで仲間を見つける。さまざまな場所で。それはクラブかもしれないし、ライブハウスかもしれないし、図書館かもしれないし、ヴァーチャル空間かもしれない、しかし学校ではないような気がする、でもまあとにかく、いろんな場所やいろんな結びつきがあるだろう。

私はなぜか他の若者たちよりもスケーターたちに惹きつけられる。

私自身は「滑りもの」がおしなべて苦手で、スケートボードに乗ったことはない(正確には10代の頃、上に乗ってみたことはある。そして片足で地面を蹴って進むくらいはやったことがあるが、両足で乗ってシャーっと滑ったことはない。あったかもしれないが、間違いなくしりもちをついていたはず)。

そういう私にとって、彼らが疾走する姿は単純にかっこいいし、気持ち良さそうで羨ましい、だから惹きつけられる、ということはあるかもしれない。しかし多分それだけではない。

ストリート(競技場でなく)で、思春期という、心も身体も大きく変化する激動の時期の、暴力的なまでにやり場のない気持ちをスケートボードに乗せて疾走する彼らは、目の前に立ちはだかるシリアスで退屈な社会に必死で抵抗しているように見える。そちら側には行きたくない。子ども時代の終わりと大人の社会への入り口の狭間でもがき、不安や苦しみを身体的な課題(難しい技や、危険なあるいは禁止された場所で乗るなど)に置き換えて乗り越え、楽しさや喜びに変えようとするその姿に、文字通りの刹那さを見て胸がわさわさし、切なくなるのだ。

一緒には居るけれど、結局は一人一人、自分自身のボードに乗って自分だけで走る。課題は各自それぞれだけれど、周りには仲間がいる。そういう、仲間と自分との微妙な距離感がいかにも“家族”と似ていて、だから仲間のいる空間が、彼らが“帰って来たい場所”として機能しているのではないだろうか、とも思う。(そして、時期がくるとそこを離れて行く、という意味においても、家族と似ている)

三作に共通して、彼らの中に彼ら自身をビデオに収める人物が出てくる。スケートボードで疾走する様は殊更にビデオジェニックであるから、彼らをビデオに撮りたいと思うことは極めて自然であるが、撮影者が“彼ら自身”の一人であることが、貴重でありまた特殊である気がする。多くの場合、撮影者は単に撮影者であり、内部の者が持つ親密な視線を持つことが難しい。

その意味で、ビン・リュー監督は、インサイダーにしか引き出し得ない何かを本作に写し撮っているように思える。






『私の知らないわたしの素顔』-渇望の内実

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2019年製作/101分/R15+/フランス

原題:Celle que vous croyez

監督:サフィ・ネブー

製作:ミシェル・サン=ジャン

原作:カミーユ・ロランス

出演:ジュリエット・ビノシュニコール・ガルシア、フランソワ・シビル、ギョーム・グイ



本作はまるで、同じジュリエット・ビノシュ主演、監督はクレール・ドゥニの『レット・ザ・サンシャイン・イン』の裏返しのような作品だ。

 

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http://2017.tiff-jp.net/ja/lineup/works.php?id=119

 

どちらも、子どもを持ち離婚した(どちらかと言えば相手の都合で)中年女性が恋愛をあきらめきれない物語である。そしておそらくどちらも若い人が観てもあまりピンとこない作品ではないだろうか。なぜなら性を伴う恋愛の意味は青年期と中年期では大きく違うからだ。

 

そもそも恋愛とは、種の子孫繁栄のために遺伝子に仕掛けられた装置である(たぶん)。青年期のそれは、突き詰めれば子を生すことに向かって進められるゲームのようなものだ。(もちろんこれは物事を単純化した物言いであって、人間には“子を生さない”という選択肢もあるし、様々な理由で子を生せないこともある。その場合には恋愛は成り立たないというわけではない。人間とは想像以上に複雑なものだ)

 

本作の主人公クレールは離婚した後、付き合っていた若い恋人リュドから居留守を使われるなどすげなくされ、ちょっとした思い付きから、フェイスブック上に他人(若い女性)の写真と偽名を使ったアカウントをつくってしまう。そしてリュドの居留守を助けた友人アレックスをそこで発見し、近づいていく。そもそもはリュドの動向を知りたいことから発した行動だったが、次第にアレックスに夢中になっていく…

いつでも男性がいないとダメなタイプの女性はいるが、クレールもそういう女性というだけなのだろうか。あるいは、フランスが、カップルという単位を成すことができてこそ大人として参加資格が得られるかのような社会だから、“おひとりさま”に耐えられないということなのだろうか。

 

フェイスブックのアイコンに設定した写真の、若い女性は誰(あるいはどういう関係の人)なのだろうか、というのは、それが終盤で明かされる前に、察しが付く人には察しが付く。

 

 

(ここから先、思い切り内容に触れていますのでご注意ください)

 

 

アイコンの写真が姪というところまでは分からなかったが、元夫の浮気あるいは不倫相手であるだろうことはなんとなく察した。夫に裏切られ、遺棄されたという思いが、常に恋人を求める気持ちに繋がっていったのだろうと想像したからだ。クレールが恋人を求めるのは、たんに「男性がいないとダメ」なのではなく、またいわゆる「男遊び」をしたいわけでもない。誰かに必要とされること、誰かに大切にされることを、狂おしいほどに求めているということなのだ。だから相手はリュドでもアレックスでもどちらでもいい。しかしそれだけなら、性を伴わない関係であってもいいのではないか。自身の子どもたちではだめなのだろうか。

 

元夫を奪った姪、カティアは若く健康で美しい。これから元夫の子を産むかもしれない。その事実は、人生の半ばを過ぎたクレールにとって、大きな打撃となる。自らも子どもを産んだ経験があることがなおさらその打撃を大きなものにする。出産したのは遠い過去の話で、それは今の自分にはもはや不可能なことなのだ。性を伴う激しい渇望は、女性として終わっていくことへの恐怖の置き換えであり、渇望による行動は、その恐怖からの逃避である。女性として終わった先にあることは、人間として終わること、すなわち死だ。

先に本作を若い人が観てもあまりピンとこないだろうと書いたのは、このように自分の行くさきに死への階段が地続きで見えてくるような感覚は、若い人には想像しづらいと思うからだ。

 

世に浮気や不倫の話は山ほどあり、それらの状況や成り行きは、突き詰めれば似たり寄ったりだ。本作を「同居させてあげていた自分の姪と夫が不倫して離婚に至り、姪と夫は結ばれて、一人になった女が新しい男を求め、次第にメンタルをやられてしまう話」と言ってしまえばそれまでだが、やられたメンタルの内実を深く探ってみるなら、表層とは違ったものが見えてくるはずである。まあ、それもまた似たり寄ったりなのかもしれないが。