『ROMA / ローマ』 ー マチスモへの静かな批判
原題:ROMA
製作年:2018年
製作国:メキシコ、アメリカ
監督:アルフォンソ・キュアロン
製作:ガブリエラ・ロドリゲス、アルフォンソ・キュアロン、ニコラス・セリス
出演:ヤリッツァ・アパリシオ、マリーナ・デ・タビラ
135分
1970年から1971年のメキシコシティのとある中産階級の家庭に起こった出来事をモノクロで描いた作品。脚本も手がけたキュアロン監督の子ども時代の経験が元になっているとのことだが、モノクロである意味のひとつはそこにあるだろう。モノクロであることによって、作品世界は色鮮やかな現在から一歩遠ざかり、観客との間に適度な距離を生んでいる。これは監督にとって過去の、(自ら作品として再構築したとはいえ)手のつけようのない世界の話であることを示しているのではないだろうか。
カメラの動きもまた、その距離感をよく表している。登場人物からある程度の距離をとり、それ以上に近づこうとしないカメラは、観客を誰の中にも誘い入れない。つまりカメラは誰の心境も直接的には代弁しない。近寄るのは仕事をする手元やテーブルの上、食べ物飲み物、床や地面、こどものおもちゃなどである。繰り返されるパンニングは観客にカメラの存在を強く意識させる。このカメラは一体誰の視線なのだろうか、と。
本作の客観的な視線は、全知の神の視線というよりは、ドキュメンタリーのそれに近い。観客に、登場人物に知りえない情報を与えるというよりは、単にそこで何が起こっているかを知らしめている。当たり前のようであるが、この視線はキュアロン監督自身のものであり、“私的な個人”としての監督がタイムトリップをして自身の過去(に起きていたが当時は知らなかったこと)を見ている、ともとれる。
(キュアロン監督は『ハリーポッターとアズカバンの囚人』の監督でもあったということを知らなかった。ハリーポッターシリーズはこれまで一作も観ていなかったが、たまたま『ROMA』を観た直後に観てそのことを知った。『アズカバンの囚人』でハリーは過去へ行くが、これは偶然だろうか)
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以下、かなり内容に触れていますので、知りたくない方はご注意下さい。音響については、アップリンク吉祥寺で観た感想です。Netflixやほかの映画館では違う聞こえ方かもしれません。
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ところが一箇所だけ(一度観た記憶によるので違っているかもしれない)、カメラがその客観性を外れるシーンがある。家政婦クレオとその恋人フェルミンが映画デートをとりやめてどこかの部屋にいるシーンである。
ここにはフェルミンを見るクレオの視線、クレオを見るフェルミンの視線が存在する。
フェルミンは全裸で、まず奥にあるシャワールームからカーテンポールをはずして来る。そして、ベッドの上でシーツにくるまり座っているクレオの前で武術を披露する。観客はクレオとともに、画面全体に展開されるその様子を見る。彼は大真面目だ。だからこそ、その一連の様子は滑稽にさえ見える。
続いて観客はフェルミンとともに、ベッドの上で片側を空けて座っているクレオを見る。貧しい出自の自分はこの武術に救われた、という彼の自分語りを聞くクレオは、幾分当惑気味に口元で小さく微笑んでいる。あるいは武術に圧倒されているのかもしれない。
自分のかっこよさ、男らしさを披露したフェルミンはベッドのクレオに近づく。フェルミンの顔が大写しになり次第に荒くなっていく息遣いが聞こえる。フェルミンの手がクレオの手を時間をかけて絡め取って行く。逆光のためフェルミンは暗いシルエットとなり、顔の細部はよく見えない。この時点では、クレオにはこの男の本当の顔が見えていないのだ。(しかし私たちにはなんとなく嫌な予感がするかもしれない。なぜなら私たちはこの男に恋をしていないから)
このシーンで主観的な視線が現れるのは、人は恋の始まりの過程において客観的な視線を持つことがほとんどできないからだろう。そしてそのことが後に悲劇を生む(ことも多々ある)のである。逆に、ソフィアとアントニオのように醒めてしまった夫婦間では、客感が主観を凌駕する。
本作の音響設計はかなりこだわったものであると、観る前から聞いていた。実際、音は色々な方向から聞こえてきて、自分が映像世界に入っているかのように感じる場面が多々あった。
例えば、ソフィアとアントニオの一家が揃ってテレビを観る場面もそのひとつだ。カメラはまずテレビ画面を写している。すると不意に自分の斜め後ろからこどもの笑い声や話し声が聞こえてくる。カメラが切り替わると、テレビを観ている家族が写り、観客は自分たちがテレビと彼らの間にいたことを知るのである。
地震のシーンでは観客のシートにも音が響き、デモの日の家具屋でのシーンではすぐ近くに銃声が聞こえる。客観的なカメラとは裏腹に、観客をシーンの中へ引き入れる音使いだ。
終盤の、溺れたこどもたちに気付いたクレオが海に入っていくクライマックスのシーンは、圧巻、という言い方が適しているかどうかわからないが、非常に印象的な、強い緊迫感を観客に与える。逆光を上手く使った映像的な美しさもあるが、音もその要因のひとつだろう。
このシーンでは、観客はクレオの右手にいる。クレオの動きにつれ、観客も海に入っていく。まるで自分が溺れかかっているかのように息苦しささえ覚える、と言ったら大袈裟だろうか。波の音、水の音の中に、自分が埋もれているように聞こえるのだ。
カメラは、それこそ“大袈裟に叫び派手に飛沫をあげて行くクレオ”のすぐ後ろについて行くこともできたはずだ。時折悲痛な表情のクローズアップをさし挟むこともできただろう。しかしクレオはただこどもの名前を呼びつつ、水を押し分けるようにして徐々に歩調を早めながら海に入って行くだけだし、カメラはそれを離れた位置からただゆっくりと静かに追うだけだ。パニックの場面でこのように静かに、臨場感と緊張感が表現されていることは驚きである。
本作は台詞も少なく、そこで起こっていることについて言葉による説明的な部分は一切ないが、映画らしい表現方法で多くのことが暗示される。繰り返されるモチーフには、飛行機、水、車、犬、犬のフンなどがある。ここではそのひとつひとつには触れないが、個人的には飛行機や水のように抽象度の高い象徴的なメタファーより、車や犬のフンのような卑近なものの具体的な使い方に面白さを感じた。特に車は、ソフィアとアントニオの性格の違いや、家庭内の不和、二人の心の動きなど、多くの情報を与えてくれる。ソフィアもアントニオも犬のことなどお構いなしであるばかりか(いったいなぜ犬を飼っているのだろう)、フンを暗に互いへの怒りを表現する道具にしている(犬のフンがなければ、代わりにこどもがその道具となっていたかもしれない)。
多様な読み方ができるのは、そういったディテールについてだけではなく、作品全体についても同様だろう。
経済格差の激しい社会の下層に生きるフェルミンは武術に救われたと言うが、結局はデモの民衆を暴力によって押さえ込む政府の駒として使われている。この皮肉は、容易に解決できない社会問題の複雑さを私たちに突きつける。そのフェルミンが妊娠したクレオを拒否し「家政婦が!」と言い捨てる場面は、社会の中で二重に虐げられた存在を浮き彫りにして胸に刺さる。
個人的には、これはマッチョな男(たち)から自由になる女(たち)の物語として読みたくなる話である。
女に自分を語り、適当に遊んで、妊娠を知った途端に逃げだすばかりか、脅して侮辱までするフェルミンと、四人もこどもがいる家庭を放り出して女の元へ行き、無神経にもこどもに出くわすかもしれない(実際に見られてしまうが)同じ街の映画館に女と行き、たまに家に帰ればこの家は散らかっているだのと(まるでそのことが家に寄り付かない原因であるかのように)文句を言うアントニオ。社会的ステータスも受けた教育も異なる二人の男だが、マチスモにはそんなことは関係ない。そして、女からみれば二人とも自分の好きなようにやる身勝手な男でしかない。
フェルミンを追って訪ねた武術の訓練場で、指導者以外の男たちが誰一人としてできなかった片足立ちのポーズを易々とやってのけたクレオは、その精神の強さによってマチスモを無効にする。そして、苦く辛い経験の果てに、海辺での悲痛な告白によって解放され、いずれ新しい一歩を踏み出すだろう。また、男の虚栄心そのままの無駄に大きな車を売っぱらってさっぱりしたソフィアは、これからは自分が動かしやすい小さな車で街を颯爽と走り、四人のこどもたちを育てていくのである。
ROMAはひっくり返すとAMOR、愛となる。これは愛の物語なのだろうか。
ソフィアであるような女性たち、クレオであるような女性たちへの、キュアロン監督のひとつの愛の表現なのかもしれないとは思う。