WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

フレデリック・ワイズマン『病院』ー ニューヨーク・ハーレムの人々

今年のシネマヴェーラでの特集上映で観た3本目は『病院』です。

 

www.cinemavera.com

 

病院 Hospital(16mm)

 

原題:Hospital

公開年:1969年

84min、白黒、16mm

 

(以下、内容に触れます)

 

刺激の強い場面

 

本作品の舞台は、ニューヨークのハーレムにある市民病院です。

まず、横たわった人のお腹に印をつける場面から始まります。医師とおぼしき人が数人で取り囲んでいます。これから手術… というところです。

その後、メスで切って身体の中が見えるところまで行くので、そういう画像に弱い人には少々きついかもしれません。

私も決して強くはないほうなので、うわ、となりながら観ていました。これがカラーだったらどうだったろう、と思いつつ。

でもこの場面は、まだ「お腹に印→切る」という手術の手順で進むので、そういう心構えでみることができましたが、終盤で負傷して運ばれて来た人のキズを縫う場面はもっとキツかったです。かなり出血もしていたので…

 

これら流血絡みの場面は、なるべく目を逸らさないように観ていましたが、他につい目を逸らしてしまう場面がありました。ドラッグのバッドトリップで運ばれて来た若者の場面です。

「何を飲んだ? メスカリン?」

「そう… だけど前の時はこんなじゃなかった… 死ぬのかな…」

「大丈夫だ」

みたいなやり取りをしつつ、医師は患者に催吐剤を飲ませる…

このあとがひどい状態で、つい目を逸らしてしまいました。

若者はその後少し落ち着いて、自分の街から(州名を行っていましたが忘れました)ニューヨークへ来て全然いいことがなかった、もう帰るよ、と、うつろな目で言ったところで場面は変わりました。

 

病院から見える人々の暮らし

 

そんな「救急病棟24時」みたいな場面ばかりではなく、外来にやってくる普通の人々の姿も写し出されます。

自分の症状について恥ずかしがる老人、治療費の支払いについて心配する老女、医師から、今日は帰らないほうがいい、と言われても、どうしても帰ると主張する男性…

彼ら一人一人について、もちろん何の説明もありません。観客は見えてくるものからただ想像するだけです。

病気について、家庭の事情について、彼ら自身の心情について…

 

終盤に、さっきまで誕生日のパーティーを楽しんでいて、急病で運ばれて来たとおぼしき年配の女性が写ります。呼吸器をつけられています。娘(中年です)が一緒に来ていますが、医師から母親の容態はかなり危険な状態だと聞かされます。主治医の連絡先を聞かれ、それなら名刺を持っている、とお財布のようなものの中を探りますが、なかなか出て来ません。やっと見つかって、はい、とそれを医師に渡しますが、医師は「これは使えませんね」と彼女に返します。どこかのお店のポイントカードだったからです。

「あら私、どうしちゃったのかしら…」

人は本当に動顛すると、ぱっと見たところでは平静に見えるんですね。少なくとも取り乱しては見えない。そのリアリティにぐっときました。

 

この作品は84分と、ワイズマンにしては短いほうですが、病院という場所の性質上、あまり長いと観ているこちらもまいってしまうでしょう。

白黒なのも重々しいと言えば重々しいですが、かといってカラーだとしたら刺激が強過ぎる場面があるので、やはり白黒でいいのだと思います。

 

 

 

 

 

 

 

フレデリック・ワイズマン『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』

ワイズマン特集@シネマヴェーラ渋谷での2本目です。

今回の特集上映はもう終わってしまいましたが…

 

www.cinemavera.com

 

ナショナル・ギャラリー 英国の至宝 National Gallery(BD)

『ナショナル・ギャラリー 英国の至宝』 

原題:National Gallery
公開年:2004年
カラー, 181分
 

 

今回の特集上映の中では最新作で、アメリカではなくイギリスの国立美術館を撮影したものです。

ですが、ワイズマンなので、この美術館がどこにいつからあってどのように歩んで来たか、などを説明する場面、ナレーション、字幕などは当然ながらありません。

だから私たちは、なんの予備知識もなくいきなり美術館の中にいます。

そこで目にするのは展示された絵画、ギャラリートークやワークショップ、ピアノコンサートやダンスなどの催し物などに加えて、普段は観ることができない経営にかかわる会議の様子や絵画の修復作業などなど…

 

映画としてどうなのかというのは、もう一度観ないと私にはわからないです。

眠りはしなかったのですが、なんとなく物足りないような…

 

ただ明らかなのは、名作がたくさんある世界最高峰の美術館でワイズマンが映し出そうとしているのは、美術品そのものだけではない、ということでしょう。

そういうのは女優さんをナビゲーターにした「美術館探訪」みたいなテレビ番組にもできることです。

そういう意味では、美術品について詳しく知りたいとかを期待して観ると物足りないかもしれません。

でも私が物足りなかったのはそういう理由ではなく、私自身が”思いがけないなにか”をそこに観ることができなかった、というだけのことのような気がします。

映像を見る目が不十分なので。

 

ワイズマンが作品を通して行ってきていることは、おおざっぱに言えば、”そこ(具体的な場所あるいは具体的にしろ抽象的にしろある状況)における人々の行い”であって、この作品でもその部分は変わりないとは思いました。

 

全く個人的な話ですが、ここに出てくるミケランジェロやホルバインといった画家の絵は、今の自分には情報量が多過ぎて疲れてしまうなあ、という発見がありました。それはそうだろうと思うのは、描いた人は相当な時間とエネルギーをそこに費やしているわけですから、観るほうだってそれを受け止めるためにはそれなりの力が必要なわけです。

西洋の絵画は宗教的であればあるほど情報量が多い気がします。禅画などとは対照的です。

絵画を観るのには体力が要りますね。

 

ワイズマンはナショナル・ギャラリーを撮りたいと思い、30年越しでようやく撮ることができたそうです。

 

映画を観るのにも体力が要ります。

 

 

 

 

 

フレデリック・ワイズマン『パブリック・ハウジング』ー シカゴの公共住宅

3月18日からシネマヴェーラ渋谷でワイズマン特集上映が始まりました。
昨年に続き二度目の特集ですね。31日までの開催です。
 
ワイズマン、好きなんですよね。

BGMなし、ナレーションなし、インタビューなし、のドキュメンタリー。

ドキュメンタリーであるかないかはあまり問題ではなくて、彼の作品がフィクションであったとしても、おもしろいと思います。
(と言いつつも、モノによってはちょこちょこ寝ちゃうんですけど)
 
 
今回、まずは『パブリック・ハウジング』を観てきました。
 
パブリック・ハウジング Public Housing(16mm)
 
原題:Public Housing
製作年:1997年
カラー16mm, 195分
 
(以下、内容に触れています) 
 

アフリカと決定的に違うこと

 
今回の特集では、21作品を観ることができますが、その中で一番観たかったのがこれです。なぜだろう? なぜか普通の人々の普通の生活に興味があるんですね。
 
カメラはシカゴの郊外にあるかなり大きな団地の日常を写しています。
住民はほとんどが黒人で、外で遊ぶ子どもたちやイスを出してひなたぼっこをしている人々なんかを見ていると、アフリカっぽくもあるのですが、やはりアフリカとはだいぶ違う。
アフリカだったらそこら中から音楽が聞こえて来るし、もっと陽気だけれど、ここはなんというか荒涼としているというか殺伐とした雰囲気です。
しょっちゅうポリスがまわって来て、常にドラッグの影がある。アフリカにドラッグがないわけではありませんが、こういうのはあまり見ない光景です。
 
またある場面では、独居の老人が、契約切れかなにかで、もうここに住むことはできない、とりあえず必要なものをまとめて、とポリスに言われ「なにがなんだか…」と言いながらどこか(なにかの施設?)へ連れて行かれます。老人の独居というのは(私が知る限りの)アフリカでは普通はありません。この場面では女性ポリスが目に滲む涙をぬぐっていました。
 
 

ワイズマンのすごいところ

 
ところでシカゴはオバマ元大統領のホームタウンでした。テレビのドキュメンタリーでこういうのがあったんですね。
 

www6.nhk.or.jp

 

我が家はBSを見られないのでこれを見ていませんが、リンク先のページを少し読んだだけでも、シカゴの状況はこの映画のときとほとんど変らないか、むしろ悪くなっているようです。10年足らずで貧困やドラッグや老人問題などが劇的に変ることはないでしょうが… この同じ団地の今を見てみたいです。

 

ある場面で、(おそらく)管理組合(か、住民代表? 単に希望者?)に対し、この団地への公的資金補助のようなことについて、(なんらかの)公的な立場の人が説明します。

「仕事がない? 会社を立ち上げればいい。年間??万ドル(数字忘れました)の資金がここに割り当てられる。立ち上げた会社でここの改修工事を請け負えばいい」

住民の一人が言います。

「仕事がある? 自分は7年(?数字忘れました)も前から塗装の会社をやっている。でもいつもいつもよそから来る業者が目の前で仕事をしているのを見ているしかない」

説明をしに来た人物は、大丈夫だ、仕事はある、とあくまでも楽観的ですが、住民の表情は晴れません。場面は別のところへ移ります。

 

この人物がのちに、この地域の学校(たしか大学)で、まったく同じ話をするんです。ハンドマイクを持って、ちょっとエキサイティングな感じで。

彼はこの地区出身で、プロバスケットボールの選手を経て現在の(なんらかの)公的立場の仕事をしている、とここでわかります。

学生たち(だけじゃありませんでしたが)の中には、彼の話を静かに聞いている人もいますが、イエーと盛り上がる人たちもいます。

 

そこで映画は終わります。ぶつっと。

この終わり方。

ここで観ている者はいろいろと考えさせられます。

こういうところがワイズマンのおもしろさであり、すごさのひとつだと思います。


 

 

 

 

 

 

『モアナと伝説の海』ー(伝説なのは島?)

『モアナと伝説の海』観てきました。

子どもと観に行ったので吹き替え版です。

 

www.disney.co.jp

 

ディズニー映画の絵柄がこういう感じになってからずっと思っているのですが、ヒロインも含めて女性の顔が嶋田歌穂さんに見えてしょうがないです。モアナも似てます。

でも誰も言わないので、そう思っているのは私だけかも。

だからどうだというのはないのですが。

 

(以下、内容に触れています)

 

シンプルなストーリーと美しい海

 

私は海がちょっと苦手です。果てしない感じが怖いんですよね。

でも、というか、だからこそ、なのか、遠い遠い昔に海を渡った海洋民族の話とか好きです。その民族に興味があるというよりも、その道のりに惹かれます。

(同じように、インドからスペインへ渡った人々、なんかにも興味ありますが、関係ないですね)

だからこのモアナの冒険に素直に乗っかって楽しんできました。

海もいいし、島もいいし、歌もいい。溶岩サイコー。

海とコミュニケーションとれるなんて、ボールと友だちなキャプテン翼みたいな感じ? ではないにしても、I'm OK感がすごくて、観ているこちらも幸せな気分になります。

 

話はシンプルで、その昔マウイがとってきた「心」をその持ち主である「島」に返しに行く、というもの。

後押しするのはおばあちゃん。

ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』でもそうでしたが、やっぱり祖父母と孫っていうのは特別な関係なんですね。子が自立するときは必ず親と対立する。そんなとき全面的に受け入れて応援してくれる祖父母の存在は、大きいのでしょう。

 

わかりやすい話ですけれど、わからないところもあって、それは、海がモアナを助けたり助けなかったりするところです。助けないところは、あえて試練を与えたとかなんでしょうかね…

 

タトゥーの話と質感

 

すごいなーと思ったのは、モアナの髪とマウイの肌の質感。

私、このタイプの絵柄のアニメーションを最初に観たときは、どうもなあ… って思ったんです。すごく人工的な感じがして。いや、もちろん昔のアニメのほうがもっと人工的っていうか「絵」でしたよね。そうなんですが、タッチがどうもなあ… だったんです。

でも、なにがどう変って来てるのかわかりませんが(単に私自身が見慣れて来たのか)、やっぱりどんどんよくなってる気がします。マウイのタトゥーの載った肌の質感はものすごくリアルでした(必ずしもリアルなのがいいというわけではないですけどね、アニメーションは)。

 

タトゥーといえば、さすがディズニー、「タトゥーとはそもそもどういうものか」っていうのをさらりと歌で説明してて、なかなかに教育的でした。けれどもこの「さらりと」っていうのがよかったです。

 

ディズニーヒロインと恋

 

ここのところのディズニーヒロインと同様、モアナも恋には落ちません。マウイは冒険仲間、バディです。村のために冒険を終えて帰って来た村長の娘は、立派な村長となるでしょう。

この、冒険くらいでいちいち恋に落ちたりしないたくましい少女は、たくましい脚をもっていて、それがことさらに強調されていました(でもないのかな。何度か”アップ”になっていたけど)。

 

こうなってくると楽しみなのは、今後ディズニーヒロインが恋に落ちるとしたら、どういう状況なのだろうか、どういうストーリーになるのだろうか、ということ。

もう少し「恋には落ちません」が続くのかもしれません。でももしまた恋に落ちるのなら、ぜひ新しい恋の形を見せて欲しいですね。

 

 

 

 

 

『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』 - 大人になるとき親はいらない

ティム・バートン監督の『ミス・ペレグリンと奇妙なこどもたち』を観てきました。


監督:ティム・バートン
製作年:2016年
製作国:アメリ

www.foxmovies-jp.com

 (以下、内容に触れています)

 

 

ナチスの影 ー 奇妙な子どもたちとは

この作品に原作があるとは知らずに観ました。(読んでいません)

ハヤブサが守る家 (海外文学セレクション)

ハヤブサが守る家 (海外文学セレクション)

 

 

ティム・バートン史上最も奇妙」というキャッチ・コピーの本作品、最も、かどうかはわかりませんが、特殊な能力を持つ奇妙といえば奇妙な子どもたちが出て来ます。

その子どもたちが繰り広げるファンタジー、というのを想像していたのですが、そうでもなかったですね。もちろん彼らは活躍していますし、彼らがごく普通の子どもたちだったら話はまわらないだろうと思いますが、これはちょっと周りから浮いている、ジェイクという男の子の冒険と成長の物語でした。

 

その背景は第二次世界大戦。”奇妙な子どもたち”はナチスドイツに爆弾を落とされることになる家で暮らしていました。彼らを守っているのが、ハヤブサの化身(逆か?ハヤブサになることができる?)ミス・ペレグリンで、時間を操作できる能力を持っている。

彼らを襲って来る恐ろしい怪物の名は”ホロゴースト”(何故か字幕や公式サイトでは”ホローガスト”となっていますが、作中”ホロゴースト”って言ってい るように聞こえました、私には)。だからこの作品を反戦とか反ナチスとかの文脈で観ることもできるとは思います。その意味ではとてもわかりやすい話ですし、”奇妙なこどもたち”とは、ユダヤ人、もっと拡げれば戦時下で虐げられたすべての人々を指すのかもしれません。
 

 

やっぱり出て来る「父と息子」問題、そして存在希薄な母 

 

ですが、そういう大きな話は単に枠組みであって、私が個人的に気になってしまうのが、父と息子の問題です。


ジェイクの祖父エイブは、ジェイクが小さい頃に、奇妙な子どもたちのことを写真をみせながら話して聞かせていました。ジェイクはおじいちゃんっ子で、もちろんエイブの話は全部信じたし、その話を学校で発表して、みんなにからかわれるようになってしまいます。

ティーネイジャーになったジェイクは、独居しているエイブに時々会いに行っていますが、叔母と一緒にエイブの家に向かう車中での会話から、ジェイクの父フランクはあまり自分の父親のことを思いやっていないのが感じられます。

フランクは、自分が子どもの頃には父エイブが留守がちで、自分はあまり構ってもらえなかった、きっと浮気していたのだろうと思っています(実際は奇妙なこどもたちの家に行っていたのだろう、と観客は想像します)。エイブはエイブでフランクが煙たい。(忘れちゃったのですが、奇妙なこどもたちの話を子どもの頃のフランクに話したけれども信じなかったのだっけ?)

物語はジェイクの祖父エイブが不審な死を遂げるところから動き始めます。

ジェイクはフランクと違ってエイブを気にかけていたし、だからこそその死はつらかった。助けてあげられなかったという思い。普通じゃない死に方はきっと過去に話してくれたことに関係があるに違いない。例の子どもたちがいた施設へ行きたい…

ジェイクには母親もいますが、関わりが非常に希薄で、登場しなくてもいいくらいの登場しかしません(名前もおぼえてない…)。例の施設を訪ねてみたいと言うジェイクにも、自分は行けない、と言うだけ。しぶしぶフランクが付き添うことになりますが、それもライターとしての自分の仕事の足しになるかもしれない、という下心込みだったりします(後にこのもくろみははずれて、不機嫌丸出しに…)。

ジェイクとフランクはこれまた微妙な関係で、フランクはエイブを信じていないから、ジェイクの話も信じない。そして自分も結構ジェイクに構っていないということに無自覚です。

ジェイクはそんな両親に対して大きく反抗したりはしません。

わかりあえない二組の父と息子の問題は最後まで(物語の中では)顕在化しませんし、母もどこへ行ったやら、です(どこかに行ってしまったわけではありませんけど)。

 

とにかくジェイクは、自分でも知らなかった能力によって、この不思議な世界の子どもたちを危機から守ります。やむなく別れ別れになり、一旦は自分の家に戻りますが、(おじいちゃんの知恵を借りつつ)自分で道を見つけ、最後には子どもたちと再会するのです。


 

普通にエンターテインメント


戦争のことや家族問題などごちゃごちゃしたことを一切考えなくても、普通に充分楽しい作品です。ティム・バートンが好きならなおさらですが、そうでなくても。若干グロテスクなところもあるので、そういうの絶対ダメ!という人はダメかもしれませんが…

いかにも、なイギリスのお屋敷もいいし(廃墟も含めて)、ミス・ペレグリンエヴァ・グリーンがかっこいい(作中大活躍、でもなかったけれどもヴィジュアルが)。メイク真似したいくらいでしたね。

特にクライマックスの遊園地での戦いのシーンは、音楽(BGMではなくて、遊園地で鳴っている)とあいまって、緊迫した場面なのにユーモラスで、なるほどティム・バートン、って感じでした(ペンキで見えるのかよ、っていうこともありますが、まあ、ね)。
 
 
 

 

 

 

 

 

『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』ー 普段着のフラメンコ

 『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』を観て来ました。

 

監督:チュス・グティエレス

製作年:2014年

製作国:スペイン

映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』公式サイト


『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』予告編

 

(以下内容に触れるかもしれません)

 

 

ロマと音楽と舞踊

 

ロマというとすぐに思い浮かぶのはこの映画。


映画「ガッジョ・ディーロ」日本版劇場予告

 

トニー・ガトリフ監督の『ガッジョ・ディーロ』。

フランスの青年が「本物のロマの音楽」を探しにルーマニア(とおぼしきところ)へ行く話です。自らもロマである監督が、ロマの人々の生活をリアルに描いていて、好きな映画です。ここでも、ロマの人たちにとって音楽は非常に重要なものとして描かれていました。

 

『サクロモンテの丘〜ロマの洞窟フラメンコ』は、スペインのアンダルシア地方グラナダ県サクロモンテ地区に居を据えた、ロマの人々の音楽「フラメンコ」を巡る物語です。

詳しくは知らないのですが、ロマの人たちの道のりは北インドを出発して中東、東欧を通ってスペインに至ったらしく、だからフラメンコは「ある何かが行き着いた先」みたいな印象が私にはあります。

その何かとは、「音楽的な何か」であり、「舞踊的な何か」ですね。

 

「ロマの人たちはスペインで迫害されて洞窟へ入った」みたいな話もどこかで聞いた気がします。そう聞いたことがあるからなおさら、そこが行き着いた先であり、洞窟という象徴的な場所でさらに凝縮された、という印象があります。実際はどうなのか、その辺はわかりません。

本作品はサクロモンテ発祥の音楽と舞踊に焦点をあてていて、差別や迫害についてはほとんど触れていません。ただ、サクロモンテにはロマも非ロマも住んでいた、うまくいっていた、と語られる場面はありました。

その真偽はどうあれ、本作品を観る限りにおいては、自分の持っていた哀切(差別からくる悲哀なども含めた)の音楽と舞踊、というフラメンコへのイメージは少し歪んでいたかもしれないと思いました。

本作品で歌われる歌は、メロディは哀切であっても、思っていた以上に「なんでもないこと」であり、『ガッジョ・ディーロ』に出て来るロマの人々を連想させるような率直なものです。

(言葉がわからなければああいうメロディーで「薬局の前に住んでいた〜」なんて歌っているとは思わないなあ… 私は普段から歌の歌詞はどうでもよくて、こういうの聴くと、ほらね、どうでもいいでしょ?って思う)

 

 

生きる糧

 

本作品の中で、出演者が「フラメンコは生きる糧だった」と言っています。これは二つの意味を含んでいます。

彼らは子どもの頃から舞台に立ち、その報酬で食べていました。全員がそうではないかもしれませんが「踊ってからじゃなきゃ食べられないのよ(家に食べ物がなくて)」と言っている人がいました。そういう意味で実際に「糧」だったし、また、踊らずにはいられないという意味においても「糧」だった。

多くの伝統的な芸能がそうであるように、フラメンコもまた「先生から教えてもらう」ようなものではなく、みな先人の踊るところ演奏するところを見て自ら学んだといいます。だからそれらが血肉になっているんですね。彼らにとってフラメンコ自体が「糧」でもあったのでしょう。

 

彼らの歌も踊りも、勿体ぶったところがなく、観ていて飽きません。それぞれがとても自由です。それは彼らが、自ら学び、フラメンコを糧にしつつ、フラメンコで糧を得て来たからなのかもしれません。

 

この流れからうまくつながらないのですが、公式サイトのコメントページに載っている本橋成一さんの言葉が素晴らしいです。

コメント - 映画『サクロモンテの丘~ロマの洞窟フラメンコ』公式サイト

この方がどういう方か知らなかったのですが、写真家で映画監督、さらに「ポレポレ東中野」のオーナーさんなんですね。

 

あ、そうそう、ロマの人たちの移動の道のりと音楽の変遷については、この作品もありました。

トニー・ガトリフ監督『ラッチョ・ドローム

youtu.be

 音楽や舞踊全般に興味のある方は、こちらもどうぞ。

 

 

 

 

 

 

『ブラインド・マッサージ』ー 剥き出しの孤独

ロウ・イエ監督の『ブラインド・マッサージ』を観て来ました。

 

映画『ブラインド・マッサージ』公式サイト

監督:ロウ・イエ

原作:ビー・フェイユィ

製作年:2014年

製作国:中国・フランス合作

www.youtube.com

 

この監督の作品を観るのは三作目です。

最初に観たのは『二重生活』で、観た直後は、おもしろいミステリーというかメロドラマだな、という程度の感想だったのですが、あとからなんだかじわじわ来て、他の作品も観てみたいと思っていました。

その後『二人の人魚』をUPLINK Cloudで観て、なんとなくこの監督の作品についてわかり始めた気がしていましたが、本作品を観て、その思いが強まりました。

 

(以下、内容に触れているところがあります)

 

視覚効果と音響効果

 

公式サイトやフライヤーの写真を見て、本音でぶつかり合う"ちょっと生々しい”群像劇なのかな、くらいに思っていたのですが、冒頭でいきなりショッキングな流血場面があり、驚きやすい私はだいぶ驚いて、これは心して観なければ、と緊張しました。

冒頭、中盤、終盤と配置された流血場面は、作品を観終わった今、その血の色だけがカラーだったかのような錯覚を起こすほど、強烈でした。

 

思えば『二重生活』にも結構激しい場面があったなあ… 激しいだけでなく、どうやって撮ったのだろうと技術的な興味も湧くシーンだったな、あれは。

 

さて、それは置いておいて、本作での強烈な流血シーンはどういう役割なのか、ただ私たち観客をひりひりさせるためか… そのあたりはもう少し考えないとわかりません。

わからない、といえば時々わからないところがあって、今回は私、少しも寝てないんですけれども、あれ? 何か見落としたかな? と思う場面がありました。(「難しい映画」ということではないです)

 

技術的な興味は、この作品でも、というかこの作品ではさらに湧きました。視覚障害者の感覚を、見えている私たちに体感させるような視覚効果とそれを補強する音響効果。殊に音響のほうは、そうか、なるほど、と思いました。

どんなふうであれ視覚効果であれば、結局は私たち観客には見えてしまっています。だから聴覚を狭めて行くことによって、「感覚の不自由さ」あるいは「閉塞感」というかたちで、見えてしまっている私たちに「見えなさ」を体感させる。こういう方法もあるのだな、と。実際海の底にいるような息苦しさを感じました。

 

あとこれは音響効果という意味ではないですが、楽器の上手な人(役名忘れてしまいました)の演奏がとてもよかった。

 

惹かれ合う孤独

 

同僚に連れられて風俗店にやって来たシャオマーはそこで働くマンに惹かれ、常連になって行く。「本気なのー? シャオマーは貧乏だよー?」と同僚にからかわれながらも、シャオマーに惹かれて行くマン。

最終的にめでたしめでたし、ということになるのかどうなのか…

 

ロウ・イエ監督は、少なくともこれまで観た三作品で、一環して「孤独」を描いています。いや、愛と孤独、なのかな…

「愛」については、愛というのはあるのだろうか、あるとしたらどんなものなのか、という探求の過程を見せられているような気がします。そして監督自身も答えを見つけられていないのではないかと思うのです。

それに対して、「孤独」は作品の核になっていて揺るぎなく、それによって作品全体を暗いトーンで覆っています。

ラストの髪を洗うマンの表情に、このどちらもが集約されている気がしました。

 

話はズレますが、この二人をあとから思い出すと、何故かこの曲が脳内に流れてきます。

(だから実際に流れていた曲が思い出せません)


Ed Sheeran - Shape Of You [Official Lyric Video]

 

たまたま最近気に入って聴いている曲なんですが、こういう感覚的な愛っていうのもあるんじゃないか、って思ったりするんですよね。

 

あ、そうそう、三作品を通じて、と言えば、川と橋そして雨が象徴的に登場しますね。他の作品ではどうなのでしょうか。

 

ロウ・イエ監督の作品、いいのですが寂しくなっちゃうんだな… わりと深いところで。

(観に行くなら元気な時がおすすめです)