WILD SIDE CLUB - 映画について -

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『斬、』 ー 一線を越える

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監督、脚本、編集、製作:塚本晋也

出演:池松壮亮蒼井優中村達也、前田隆成、塚本晋也

製作年:2018年

製作国:日本

アメリカンビスタ 80分 

 

 

 キィーンという、刀同士がぶつかる金属音が規則的に響くなか、物語は始まる。

 激動の江戸末期。若き浪人の都築杢之進(池松壮亮)は、農家に寄宿し手伝い仕事で糧を得ていた。隣家の娘ゆう(蒼井優)は、弟・市助(前田隆成)と杢之進の剣の稽古を日々不安とともに見つめていた。ある日、剣の達人である澤村次郎左衛門(塚本晋也)が村に現れ、杢之進の腕を見込んで動乱への参戦を持ちかける。旅立ちの前、近隣を荒らしている無頼者(中村達也)たちが村にやってくる。

 

 塚本晋也監督初の時代劇だが、劇中の言葉使いは現代と変わらない。杢之進とゆうのやりとりには身分の差が見られず、<お侍さんと百姓娘>の典型からは外れている。ゆうという役名が、それを演じる俳優の名と同じなのは、ゆうを現代の女性と変わらない生々しい存在として立ち上がらせる、ひとつの仕掛けとも取れる。

 美しく穏やかな農村の風景と対照的な、激しく荒々しい殺陣の場面は、他の時代劇と同様、本作においても見せ場である。

 殺陣は全ての動きが計算されているため、通常どうしても不自然に見えるが、だからこそ観客は物語と一定の距離を保ちつつ、安心して人斬りの場面を見ることができる。しかし本作では、手持ちカメラのブレを伴った画面の激しい動きにより、観客は文字通り真剣な戦いの只中に放り込まれる。ここで真剣の立てる鋭い金属音は観客の感覚に直接突き刺さり、殺し合いの恐怖を生々しく喚起する。

 仇をとるという大儀があっても人を斬れない杢之進の、しかし動きは素晴らしく、美しい。「人を斬れなかったらこいつに意味がないんです」という澤村の言葉は、恐ろしい重さで杢之進にのしかかる。いかに美しい技術を身につけようとも、人を殺さなければ意味がない。それが武士というものなのだ。ここに杢之進の、存在にかかわる苦悩がある。

 「上へ上へと登り、登る先がなくなったとき飛び立つ」てんとう虫のように、追い詰められた杢之進はぼろぼろになり、決断を迫られる。タイトルの「、」は、杢之進の物語がここで終らないことを表すとともに、一線を越えた先に何があるのか、という問いを観客に投げかけてくる。