WILD SIDE CLUB - 映画について -

新作・旧作を問わず映画について書いています。長い映画大好き。まれにアートや演劇についても。

『マリッジ・ストーリー』-L.A. vs N.Y. /妻 vs 夫

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2019年制作/136分/G/アメリ

原題:Marriage Story

配給:Netflix

監督:ノア・バームバック

制作:デビッド・ハイマン、ノア・バームバック

出演者:スカーレット・ヨハンソンアダム・ドライバーローラ・ダーンアラン・アルダ

 

メリル・ストリープ演じるジョアンナとダスティン・ホフマン演じるテッドの離婚を描いた『クレイマー、クレイマー』は、何と40年以上も前の1979年制作の作品だが、本作『マリッジ・ストーリー』とほぼ同じ題材を扱っている。40年経って、アメリカにおける離婚/結婚をめぐる状況はどのように、あるいはどの程度変わったのだろうか。

 

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クレイマー、クレイマー』では、夫テッドは仕事人間のサラリーマンで、家庭に打ち捨てられた妻ジョアンナは、自分自身として生きるために、着の身着のまま、幼い息子を置いてまで家を出る。家庭のことはジョアンナに任せきりだったテッドは、当初は何もできないが、次第に息子と二人の生活に慣れていく。やがてジョアンナが息子の親権をとるためにテッドに連絡をしてくるが、話し合いは物別れとなり、裁判となる。

出て行ったジョアンナがどうしていたか、まったくと言っていいほど描かれないが、L.A.で職を得て自信を取り戻し、N.Y.に戻って親権を主張する気になったことがジョアンナの口から語られる。

 

アダム・ドライバー演じる本作の夫チャーリーは、N.Y.の前衛劇団を率いて仕事に打ち込んではいるが、料理など家庭のことは一通りできるし(しかも上手い)、息子の相手も教育もする。スカーレット・ヨハンソン演じる妻ニコールは、L.A.のテレビドラマからN.Y.の前衛劇団へと舞台を変えてはいるが仕事を続けている。

一見、ニコールの生活は、ジョアンナよりも条件がいいようにも見える。家事育児は夫と分担できるし、好きな仕事もしているのだから。

しかしL.A.で女優として人気を博したとしてもそれはテレビドラマで、しかもすでに忘れられた過去のことであり、N.Y.の前衛劇団では、自分のアイディアを夫は取り上げてくれない。舞台作品への賞賛は、ほぼ夫への賞賛だ。L.A.のように広くない家の中は几帳面な夫の好みになっている。現在の状況を直視するならば“自分自身を生きている”とはいいがたい。いかに先進的にみえる夫婦であっても、男女の力関係は40年前とほとんど変わらないのだ(これは全く驚くべきことであることを強調したい)。それでもまあ、片目をつぶって夫婦関係を維持してきた… 夫の不貞を知るまでは。

 

ニコールが離婚を決意する直接の原因となったのは、チャーリーと劇団員との不貞である。『冬時間のパリ』の記事にも書いたが、パートナーの不貞行為を許せるか否かにはいろいろな条件が絡んでくる。なかでも大きいのは、それまでの生活の中で自分が相手との関係においてなにがしかの犠牲を払ってきたと思うかどうかではないだろうか。

 

hodie-non-cras.hatenablog.com

 

犠牲だけでは関係はまだどうなるかわからない。不貞だけでもまだわからない。しかし犠牲と不貞のワンセットは、確実に離別へのスイッチを押す。そしてそのスイッチは、押したが最後もとには戻らない。ニコールのスイッチは入ってしまったのだ。

妻の日々の小さな自己犠牲に気づかぬ夫は、ある日突然、妻から離婚を言い渡されて狼狽する。本作のチャーリーも、クライマックスの激しい口論に至るまで、妻側の弁護士の言い分を妻の本心とは思えないでいる。それほど二人は“同じ結婚生活”を生きていないのだ。

 

クレイマー、クレイマー』ではひっそりと触れられていたL.A.は、本作では大きく主張する。ジョアンナが自信を取り戻した地は、ニコールのホームグラウンドかつ自分が主体的にできる仕事の場所であり、夫婦の最後の共同作業である離婚の戦いの場だ。

狭く、小さな家族、よく言えば文化的な悪く言えばインテリくさいN.Y.と、広々として多くの親戚に囲まれ、明るくおおらかなL.A.との対比を見ると、もはや国際結婚に近いカルチャーギャップがある。このギャップも、関係がうまくいっている時にはさほど問題にならないが、そうでなくなったときにはかなり大きな問題となる。身体は一つしかないから、一度に二か所で暮らすことはできない。ところがチャーリーは親権を得るためにこのジレンマに挑戦しなければならなくなる…

 

互いに弁護士を入れた離婚解決の方法は、『クレイマー、クレイマー』の頃にはどうだったのか、あまり描かれていないので調べないとわからないが、現在のアメリカにおいては理不尽で不毛な戦いであり、結局のところ得をするのは弁護士だけのように見える。ローラ・ダーンは、その“いかにも”な離婚専門の弁護士を“いかにも”に演じていて出色だ。

 

泥試合の様相を呈してきた二人の戦いの(そして映画の)クライマックスともいえる口論の場面は、長めのワンカットだったかと思うが、リアルというよりかなり演劇的な印象を受けた。だから嘘っぽいという意味ではない。夫婦の口論というものを考え抜き、言葉遣いや動きを計算しつくした場面であって、なんというか、ミュージカルを観ているような感覚になった。一度も言いよどまない、言い間違えない、二人の演技のその完璧さが、書かれた音楽を歌い奏でているかのようなのだ。

 

冒頭と終盤のシーンにおいて読み上げられるニコールの、チャーリーの良いところを書いたメモの中の言葉の中に、「出逢った瞬間、2秒で恋をした」というのがある。ここでチャーリーと、おそらくは観客もぐっとくる。チャーリーはその頃のことを思い出し、観客はそれを想像して。この設定はこの二人の始まりにこれ以上ないほどふさわしい。

興醒めするようなことをいうのは恐縮だが、一目惚れとは、現時点で自分に無いものを相手に見いだし、それを手に入れたいと思う心の状態だ。相手自身を見ているのではないし、結局その手に入れたいものは自分のものとはならないから、その後の展開によっては、離別は避けられない。それでもその一瞬のときめきが、永遠とは言えないまでも長く続くと思ってしまうのが良くも悪くも人間らしいところなのだろう。その意味において、本作は夫婦の愛情についてではなく、人間の愛すべき愚かさを描いた作品でもあるのだろうと思う。

 

全編を通して、二人の性格および行動の違いの対比や、夫婦の機微、あるいは一度は夫婦だった者同士の間に生まれる心境や心情などを表す細かな演出が施されており、全体として精巧な作品という印象を受けた。ことにラストシーンは観客の心に余韻を残して忘れがたい。