『工事中』 - フィクションみたいなノンフィクション
この記事で観たいと書いていた、ホセ・ルイス・ゲリン監督のドキュメンタリーのひとつ、『工事中』を観ることができました。
ちょっと長めのドキュメンタリー。133分。うれしい。
ついでに言うなら「解体現場」も大好物です。
公式ページはこちら。
(以下、内容に触れています)
ごめんなさい。寝ました。
好きなくせに寝てしまう… ホントにここのところ眠くて眠くて、隙あらば寝てしまうのでどうしたものかと。
今回ちょこちょこと断片的に寝てしまって、これはある部分続けて寝てしまうよりよくないパターンなんですよね。
寝ちゃったけど大丈夫、って言えない。できればもう一度観たいです…(もう一度寝るかもだけど)
フィクション/ノンフィクション
『ミューズ・アカデミー』はちょっとドキュメンタリーっぽいフィクション、みたいな捉え方をされているところがあるようですが、この『工事中』は逆にフィクションっぽいドキュメンタリーでした。
描かれているのはスラム街の建物の解体と新築工事、その周辺の人々です。
(個人的には”スラム”っていうほどのところではないと思いましたが)
現場で働く人々。移民。道で独り言を言っている老人。近所のカフェだかバーだかで語り合う老人。街娼とその働かない恋人。売りに出された新築物件を内見しにくる裕福そうな人々。
レンガ職人たちの話が、時にセリフであるかのような内容だったり、街娼のカップルなんか「ほんとかな」っていうくらいにフィクショナルな雰囲気だったり…
フィクションとノンフィクションを私たちは一体どこで見分けるのだろうか。
なんてことを考えたりもしました。
衝撃の(?)ラストシーン
いろいろとおもしろいところはありましたが、一番よかったのは、最後のシーンでした。
街娼のカップルは、男の子が働いていなくて、女の子が始終「働いてよ。働きなさいよ。そうすればあたしが街に立たなくてすむ」って言ってて、でも男の子はのらりくらりとしてる。そのくせ女の子が仕事に出る時にはちょっかいだして「行くな」と言う。でも働かない。そういうシーンが何度も出て来る。
最後のシーンでは、なぜかこのカップルの女の子のほうが男の子をおんぶして街を歩いて来る。上に貼り付けた写真のシーンです。「義足つければ歩けるんでしょ?」とか言いながら、時々休みながら。
ついに女の子が「ああもうだめ」と言って止まる。
男の子が「”疲れた”?背負ってやるよ」と言う。(注:ここ、字幕で引用符ついてたけど、おそらく別のシーンで女の子が仕事に行く前に”疲れた”って言った時のことと関連づけられている? それか、たぶんなんか深い意味がある、あるいはスラング的な言葉なのかな。ちょこちょこ寝ちゃってるんで記憶が曖昧ですが)
女の子が「やった!」と指ならして飛び跳ねて、男の子の背中に飛びつく。
女の子を背負った男の子が歩いて行く(というかこちらに向かって歩いて来る)…
それだけなんですけどね。
「義足」なんて言うから大けがでもしたんじゃないかと思ったけどそうじゃなかったのか、なんだったんだあれは?と思いつつ、よかった、歩けるのかと安堵して、おんぶでこちらに向かって歩いて来る二人の姿に、なんだろうなこれ、こういう幸せもあるのかな、これも幸せというのかな、なんて思ってしまう。でも二人の先々のことを考えたら切なくなる…
おそらく状況はなにも変ってなくて、女の子は街娼だし男の子は働いていない。住んでたところは壊された。
なのになんなんだこのラストは?っていう。
あまりによくできていてフィクションかと思うほどでした。
いろいろ見逃している気がするなあ…
『ミューズ・アカデミー』ー やっぱりただの浮気?
ホセ・ルイス・ゲリン監督の『ミューズ・アカデミー』を観て来ました。
たぶん映画好きの方々の間では有名な監督らしいのですが、私は初見です。フライヤーやサイトの写真に惹かれて、観たくなりました。
(以下、若干内容に触れています)
言葉、言葉、言葉
今回、上映後に四方田犬彦さんのトークショーがありました(最近トーク付きにあたることが多いな…意図的ではないのですが)。
そこでわかったのですが、本作で使われていたのはカタルーニャ語だそうです。なんかちょっと違う気がしつつも、ずっとスペイン語だと思って聞いていました。イタリア語も使われていたのかな。「先生にはイタリア語で話します」と、生徒が言う場面がありました。なんかその辺りのラテン系の言葉を行き来していたようですね(今サイトを見てみたらそのようなことが書いてあります)。
前半はとにかく言葉、言葉、言葉。「教授の講義」ですから当たり前ですが。
で、やっぱりちょっと寝てしまいました…
美学、文学、詩、殊にダンテなどに興味がある人には、教授の講義部分も楽しめたのかもしれませんが、私はとにかく字幕を追うのが面倒で、もう大半を単に音として聞いてました。
そして、なんかそれでよかったんじゃないかと、全部観て思いました。
前半部で語られていることの細部はわからなくていいです。
ミューズだなんだと御託並べてるけど、若い子と浮気してるだけじゃん、大層な言い訳おもしろいよね、っていうことなんじゃないかと。これはコメディなのかもしれませんが、笑うほど面白くはなかったなあ… クスッくらいはしましたが。
(いや、もっと高尚ななにかがあるのかも…少なくともこのあたりの素養がある人はもっと別の楽しみ方もできるかと)
写真的なアプローチ
写真に惹かれて観に行ったと書きましたが、やはりその写真になっている場面はよかった。教授の妻と教授の浮気相手の生徒とが対峙する場面の、ガラス越しのアップです。
そのほか、教授と妻の自宅の場面、教授と浮気相手との車の中の場面などもガラスが効果的に使われていて、視覚的に好みでした。
こういうアプローチが映画技法としてすでに確立されているものなのかどうか知りませんが(勉強しなくちゃね)、すごく写真的なものを感じます。『シルビアのいる街の写真』は写真で構成されていて、かつ『シルビアのいる街』より前に撮られているということで、写真にもひとかたならぬ関心がある監督なのでしょ う。
東京都写真美術館で上映された意味が分かる気がしました。
”不在”を描く
上でリンクを貼ったサイトにこうあります。
映画は、愛や誘惑、創造、嫉妬、力の対立、教育、そして、ごまかしといった、私たちの身近にある事柄にも及んでいくのです。
この映画で語られるミューズは、私たちのまわりのそこら中にいます。
ですが私は彼女たちの名前さえも知りません。
彼女たちは、自分がミューズだとは自覚していないからです。
ミューズ、それはつまり私たちの〝投影〞によって存在する女性であり、私たちが絶対に〝知りえない存在〞なのです。
四方田さんによると(私は観ていないので)、ゲリン監督は『シルビアのいる街で』という作品で、”不在”を描いたということです。この監督の言葉を読むと、この作品もそうなのかもしれませんね。
作品毎にスタイルを変えてくるそうなので、他の作品も観てみたいとは思いました。
たとえば、その"不在”を描いたという『シルビアのいる街で』とその前に作られた『シルビアのいる街の写真』。しかし実のところこれはテーマにあまり興味がもてません。後者は写真で構成されているというところに惹かれますが…
むしろ気になるのはその後に撮られた『ゲスト』や、それより前に撮られた『工事中』などのドキュメンタリー作品です。なんとか都合を付けてどれか一本は観たい…
『Caravan to the Future』 サハラ〜サヘルをラクダで渡る人々
砂漠の民 トゥアレグ族の「塩キャラバン」
西アフリカのサハラ砂漠一帯をルーツとする遊牧民、トゥアレグ族の「塩のキャラバン」の話と知って、マリのタウデニからトゥンブクトゥへ運ばれる板塩みたいなものを想像していました。このサイトで紹介されているようなやつです。
しかし、この作品で登場するのは円錐形の塩で、しかも家畜用。家畜に食べさせる質のよい塩なのだそうです。一か月に一度だったか15日に一度だったか忘れてしまいましたが、塩を食べさせるとのこと。その塩の交易にまつわるドキュメンタリー映画でした。
ドキュメンタリー映画に細かい情報は必要か
長いの、あるいは続編/外伝、待ってます
文明と伝統の拮抗
さて、ちょっと脱線してしまいましたが、最後に、最も心を動かされたことについて。
それは、この塩のキャラバンが行われる目的はただ「粟を買ってキャンプに運ぶこと」だということ。ナイジェリアのカノで粟を買うため、そこで売れる塩をビルマ・オアシスに調達しに行く…その行程に四ヶ月という時間をかける…
私、昨日自宅のお米がきれて、ついLOHACOでポチってしまいましたが、つまりこれを四ヶ月かけてやるんですね。そしてそれ自体が仕事になっている。粟がすぐ手に入る場所に引っ越そうとはしない。
こういう生活もあるんですよね…
デヴィッド・ボウイ展『DAVID BOWIE IS...』
結構混んでます
ファッション・アイコンとしてのボウイ
ライブ映像
私がこのスペースに入った時はもうすでに始まっていました。曲が終わったのでもう一度始まるのを少し待っていたのですが、すぐには始まらなかったので、もう疲れていたこともあり、あきらめて帰りました。
グッズショップ
ドキュメンタリー映画『DAVID BOWIE IS...』
あと、『地球に落ちてきた男』も現在公開されています。
こちらは明日までの公開のところが多いので、ご注意を。
(観たいけど行けない…)
『淵に立つ』ー 何がいけなかったのか
あけましておめでとうございます。
2017年がみなさまにとって(私にとっても)良い年になりますように。
昨日は深田晃司監督の『淵に立つ』を見て来ました。今年最初の一本です。
観たいと思いつつも、相当怖いかもしれないなあと思っていて観に行きそびれていました。
(以下、内容にかなり触れていますのでご注意ください)
淵の先にあるもの
すでに関係の冷えてしまっている夫婦(鈴岡利雄・章江)とその娘(蛍)、三人家族の元へ一人の男(八坂)がやってくる。その男が浅野忠信さんだし妙に穏やかだし、で、怖い展開になること必至です。
章江の心の隙間に八坂という風が吹き込んで、鈴岡家を絶望の淵へと追いやる…
八坂が蛍に何をしたのかあるいは何もしなかったのか、それは最後までわからないのだけれども、そこから八年の時が流れ、重度の障害の残った蛍と、その介助/介護にあたる章江、興信所に八坂の居所を探させ続ける利雄のもとへ、今度は年若い青年(孝司)がやってくる…
八年後にやってきた青年・孝司が、八坂の子であったというところは、ちょっと都合よ過ぎないか? とは思いました。ホラーやミステリーでよくあるような設定です。しかし、この設定がなかったら次の展開へ繋げることは難しくなるでしょう。また、より複雑に絡み合った状況をつくりだすのにも必要な仕掛けだったかも知れません。
でも、と、また思います。
八坂の子じゃなくてもなんとかなったんじゃないかなあ… ただし持って行くのに時間はかかると思うけど。二人きりの部屋で孝司が蛍に近づいたシーンを見たら、充分可能な気がしました。八坂の子じゃない設定で最後まで持って行かれたら、もっと怖いものになったんじゃないかしら…(簡単に言うなよ、でしょうけれども)。
怖そうで観るのを躊躇していたと冒頭に書きましたが、想像していたほどではなかったと思うのは、この設定の影響もあるでしょう。
章江が蛍を道連れに、淵ならぬ橋から飛び降りたあとの水中シーンで、蛍が水上に向かって泳ぐ場面があるのですが、これが私にはよく分かりませんでした。この場面の意図するところはなんだったのでしょうか。こうであって欲しいという利雄の願い? 水面下での利雄の幻覚?
ともあれ、利雄は章江を川原にあげます。そしてそこには蛍と孝司が横たわっています。章江はどうやら助かった。利雄は絶えず叫びながら心臓マッサージをします。まずは孝司に。それから蛍に。暗転。叫ぶ声。荒い呼吸。マッサージの音。声。
因果応報?
上映のあと、深田監督と章江を演じた筒井真理子さんのトークショーがありました。
筒井さんは、八年の経過を表すために三週間で13kg増量するという、いわゆるデニーロアプローチをされたそうです。もともとは八年後のシーンの時に「八年後」というテロップを入れていたそうですが、入れなくても時間が経過したことはわかる、ということで削除したとのこと。介助のシーンで腰回りの肌が見える場面があって、その肉付きが印象的でしたが、なるほどと思いました。その演出は成功していたように思います。
質疑応答のとき、四人が川原に上がったラストシーンで、利雄はなぜ蛍でなく先に孝司に心臓マッサージをしたのか、という質問が出ました。順番を決めないままリハーサルをしたところ、利雄を演じた古館さんがそうして、それをそのまま採用したそうです。
これについては、なぜそうなったかというより、やはり蛍で暗転、というのが、終わり方として成功している気がしました。
監督によると、ラストシーンに希望を感じたという人と絶望を感じたという人と、両方いるそうです。私はどうだろう… よくわからないのですが、すくなくとも、 観終わった時に「うわ、これは救われないな…」とは思いませんでした。なぜだろう。今すぐにはわかりません。おそらく利雄の行動のためかと思います。
また、利雄が「蛍のことは自分たちの罪に対する罰じゃないかと思う」というようなことを言う場面に関して、因果応報についての質問も出ました。監督ご自身は 因果応報を信じていないけれども、「人というのはそこに因果応報を見てしまうものだ」と思っているので、因果応報自体を描いたつもりはないが、因果応報を見てしまう人たちに向けて作ったという面もある(うろ覚えです…)というようなことをおっしゃっていました。
確かに、これは因果応報の話ではないと思います。複雑に見えるけれど案外シンプルな話なんじゃないでしょうか。
愛のない夫婦は淵に立っているのと同じで、少しでも風が吹けばそれで終わり。
(そして、夫婦が愛し合い続けるって、簡単なことじゃありませんね)
余談ですけれど、「なぜ絵を描くの?」という問いに対する孝司の答えは、そのまま深田監督の「映画を撮る理由」だったようです。見るために撮っている。これはあらゆる芸術に言えることでしょう。
青年団国際演劇交流プロジェクト2016『愛のおわり』
観たいと思いつつも予定が立たず予約していなかった『愛のおわり』、本日最終公演ということで駆けつけ、当日滑り込みで観ることができました。
フランスの劇作家パスカル・ランベール氏の作品で、ランベール氏と平田オリザ氏の共同演出での上演です。
翻訳は平野暁人氏、日本語監修は平田オリザ氏。
予備知識なしで観て来ました。
(以下、内容に触れる部分がありますのでご注意ください)
モノローグの閉塞感
たぶん、開始から1分も経っていなかったと思います。
うわーきついなこれ、堪えられるかな…と。たぶん苦手なタイプの演劇だ、どうしよう、と思いました。
まず、閉所がやや苦手なんですが、当日キャンセル待ちで入場したため、少々厳しい席になってしまい、すでに閉塞感があったせいもあると思います。
舞台の上には女がひとり、男がひとり。男が「始めよう」と言って「愛のおわり」を始める。二人が終わっているということに関してバーっとまくし立てていくわけですが、女は一向に言葉を返さない。これがキツイ。
男の台詞の内容じゃないんです。それはどうでもいい(私にとっては)。女が言葉を返さない、そのことがものすごくキツくて、1分もしないうちに苦しくなって、いやもう、いつまでこの調子なのかな堪えられるかな、帰りたくても簡単に出られない席だぞ、と… 女性の表情が見えない席だったので、キツさもひとしおです。
だいたい「愛のおわり」って時にこんなに喋るかな、特に日本の男にはこういう人、まずいないよね、まあフランス人ならいそうだけど、あーほんと、いつまで続くのこれ、もうそろそろ女が言葉を返してもいいんじゃないの…
などと思いつつ観ているうちにやっと慣れてきて、ひょっとしたらこの演劇はモノローグに終始するのかもしれないなあ、と思ったのですが、それでも違う展開を期待してはいました。
「もしもこれを観ている観客がいるとしたら言ってやれ、『帰るなら今だぞ』と。長いぞー」というようなセリフ(正確には覚えていません)を男が言ったときには、ホントに帰りたいと思いました、ええ。でも簡単には出られない席です。
いや、でも実はこのセリフでだいぶ場が緩んだこともあって(客席には笑いが起こりました)、諦めて最後まで観る気になりました。
…ひどい言いようですよね。
でも、この反応は作者/演出者の思うつぼだったんじゃないでしょうか。たぶん私はすごくいい観客だったと思います。
モノローグ × モノローグ
時間的にどれくらい経ったのか確認していませんが、中盤にコーラス隊が出て来て、その間に男女の位置が入れ替わり、コーラス隊の退場とともに第2ラウンドが始まりました。はい、今度は女のモノローグです。
つまりこの作品は、「モノローグ×モノローグの対話」だったんですね。
女のモノローグパートは、構造がわかったせいか、男のモノローグへの応酬という性格だからか、あるいは私自身が女だからか、前半のようなキツさはなく、普通の饒舌な演劇(クラシックな)みたいな感じでした。ちょっと身体が痛くなりましたけど。パイプイスに2時間以上でしたから…
男のほうのありえそうもないセリフ(途中あんまり聞いてませんでしたけれども)と違って、女のほうは、女が思いそうなことを言ってはいました。しかしね、やっぱり疑問でしたね。
これが「愛のおわ」った男女の対話だろうか、と。
基本的に、愛が終わった男女は対話しません。もう対話できないから終わってるんです。相手に対して言うことなんかありません。相手の話もききたくないし、きいても痛くも痒くもないんです。
女は「あの時のあなた」や「あの時の会話」を「取っておく」ことなんてしません(男はそうして欲しいんでしょうけど)。そう思ううちはまだ終わってないんです。
仮にこれは「愛のおわ」る過程を見せているものだとしても、やっぱり納得はいかないなあ… まだまだ終わらないですよ、これ。だから私、「やっぱり終わらない」っていうオチが来るかと一瞬思ったくらいです。
Clôture de l'amour / Fin de l'amour
当日知ったのですが、本作品のオリジナルタイトルは『Clôture de l'amour』だそうです。「愛の幕切れ」といったところでしょうか。『Fin de l'amour』(愛の終わり)ではないんですね。このあたりに何かあるのかなあ、と思いますが… あと「終わり」でなく「おわり」にしていることも。
つまり、これは観念劇みたいなものであって、ここにリアリティを求めてもあまり意味がないのでしょう。
男女の間に起こることは世界共通かもしれない。でも「愛」の中身や「愛」の持つ意味は、文化のコンテクストによってだいぶ違ってくるし、だからその終わり方も当然違うだろうと思います。
(いや、わからない。終わり方はそう変わらない気もする…)
演劇を観たとき、いや、演劇に限らず何かを観たとき、「いい」とか「よくない」とかをどの部分で評価するかということにいつも悩みます。
扱っている題材がいい、扱い方がいい、あるいは逆に扱い方がよくないことがいい、などなど… 考えているうちにぐちゃぐちゃになってきます(どの分野についても評論ってあまり読んだことがないので、読んだらなにかわかってくるかしらねえ…)
もろもろ飛び越えて、いいとしか言えないものっていうのももちろんありますが、そういうのはそうそうないですよね。
とにかく、一時間しゃべり続ける(セリフを言い続ける)俳優の体力はすごいし、一時間聞き続ける俳優の体力もすごい。そしてそれを2時間20分見続ける、私たち観客だって結構すごいんじゃないかしら。
ジャック・ロジエ『オルエットの方へ』 ー 私たちのヴァカンス
あいかわらずなんてことのない時間
本作も当然ヴァカンスを描いています。女の子三人が海辺の別荘で過ごす二十日間(+α)のお話です。
実は今回も初回同様遅れてしまい、最初の部分を見のがしてしまいました。なので、三人でヴァカンスを過ごすことになった経緯を知りませんし、もしかしたら重要なことを見のがしてしまっているかも…
この波の音は印象的でした。ここまで大きく波の音を入れている映画ってあまりない気がします。よりリアルな感じ、ドキュメンタリーの風合い。
この笑い転げふざけ回る女の子たちに(私が)ついて行けなくなって来た頃、一人の男が登場します。ジョエルに気がある同僚ジルベールが、「通りかかった」と見え透いたことを言って三人の元へやって来ます。ここから話が(多少)動き出し、幾分調子が変ります。
このジルベール役の俳優は、『メーヌ・オセアン』で検札係を演じた(というか後に演じることになる)人ですね。本作では三人の女の子にウザがられながらも、なんとなく受け入れられ、でも散々からかわれて、最終的に途中で立ち去ってしまいますが、そのいかにもウザがられるタイプの男としてなんともいえずリアルな感じを醸し出していました。
そのほか、ジルベールが去る前に、「ヨット持ちのいい男」が出て来て女の子三人のバランスを微妙に崩したりするわけですが、ストーリーと言えばそれだけです。
一体、この映画の何がおもしろいのか?
そう思う人は思います。そしてこの映画をおもしろいと思う私も、同じ疑問を持ちます。前者は「おもしろくない」の反語的表現ですが、私は疑問文そのまま、「何をおもしろいと思うのだろう」と思います。
いまだによく分からないのですが、「それはストーリーではない」ということだけは言えそうです。
彼のヴァカンス、私たちのヴァカンス
彼女たちのヴァカンスをぼーっと眺めていた私たちを、ハッとさせる場面があります。
女の子たちにバカにされていると感じ、そのことにうんざりしたジルベールは、そのことを女の子たちに言い、去って行きます。そして彼が去ったあと、女の子の一人が(誰だったか忘れてしまいました)こう言います。
「私たち、彼のヴァカンスを台無しにしちゃったわね」
このセリフを機に、延々と続く他愛ないどうでもいいような話を見てきた私たちは、彼のこれまでの時間を思います。そしてさらに、自然と、なぜか、過ぎ去った私たち自身のヴァカンスを思うのです。多少の感傷とともに。
これは実に見事というほかなく、これまでの時間はこのためにあったか、と思いました。
とはいえ、ジャック・ロジエの意図する本当のところはわかりません。
たぶん、幾通りにも解釈は可能でしょう。本作品(というかすくなくとも今回続けて観た三作)は、そういう「開かれた」映画であることは間違いありません。